霊ではなく生きていたという恐怖
15年ほど前の話になります。
小学5年のとき、父が転職した関係で引っ越しをしました。
しばらくしてから、そのマンションで『若い女性の霊』を見るようになったのです。
現れる時間帯に規則性はなく、夜のときもあれば、昼間に現れることもありました。
その霊はいつも怖い顔であちこちを睨みつけていて、とにかく近寄りたくない存在でした。
うっかり目が合うと、ものすごい形相で睨みつけられ、殺されるんじゃないかと思い、逃げ出したこともありました。
特に母に対して強い執着があるようで、料理をしている母の姿を、じーっと睨み続けていたのを覚えています。
中学1年の夏休み。
仕事のある父を除いた母と私、妹の3人で、母方の田舎に行っていた間に、父が職場の若い女性と駆け落ちしてしまいました。
私たちの手元には、父が残した借金だけが残りました。
そのため、引っ越しを余儀なくされました。
新しく借りた部屋は、以前のマンションよりも古いものでしたが、不思議と霊がついてくることはなく、それ以降、霊を見ることも一切なくなりました。
高校2年の頃、父の知り合いという方から連絡が入りました。
「父が脳梗塞で倒れて入院している。世話をしてほしい」とのことでした。
母は「自分ひとりで行く」と言いましたが、私は母のことが心配で、付き添うことにしました。
そして病室にいたのは…。
以前、あのマンションで見かけた若い女性の霊にそっくりな女性でした。
私はそこで、ようやく腑に落ちました。
「ああ、あれは地縛霊なんかじゃなかったんだ。あれは父の浮気相手の“生霊”だったんだ。だから私や母を睨みつけていたんだ」と。
その女性は悪びれる様子もなく、「一緒に暮らしていただけで、結婚してたわけじゃないし、私が病人の面倒を見る義務なんてない。荷物は家に送るから、あとは全部よろしく」と、あっさり言い放ちました。
私は母に離婚を勧めましたが、母はまだ父に愛情があったのか、あるいは責任感からなのか、父の世話を始めました。
運動障害が残った父のリハビリを手伝い、嚥下障害のある父に毎日ご飯を食べさせ、身の回りの世話を続けました。
その後、あの女性の姿を、一度も見かけることはありませんでした。
たぶん、彼女がもう父に執着していなかったからだと思います。
あれほど強い思念を飛ばしていたのに、いざ別れるとなったら、あっさりしたものだなと、不思議な気持ちになりました。
(終)
AIによる概要
この話が伝えているのは、「人の感情や執着は、目に見えない形で周囲に強く影響を与えることがある」ということです。
語り手が見ていた「霊」は、実は父の浮気相手の“生霊”だったと後に気づきます。つまり、それほど強い怒りや嫉妬、憎しみの感情が、まるで霊のように現れていたのです。それは単なる怪談ではなく、人間の感情がどれほど強烈で、時に他者の世界にまで入り込んでくるものなのかを示しています。
また、話のもうひとつの軸には、「人間関係の不確かさ」や「感情の変化」があります。生霊になるほど強く執着していた女性が、父が倒れるとあっさりと関係を断ち、反対に裏切られた母が父の世話を続ける。この対照的な行動は、人の感情がいかに理屈では測れないものであるか、また、誰かを思う気持ちには、愛情だけでなく義務感や過去の絆など、複雑な理由が絡んでいることを伝えています。
そして最後に、この体験を語ることで、語り手自身が子ども時代に感じていた「恐怖」が、時間とともに「理解」や「納得」へと変わっていったという、心の成長の過程も表れています。ただ怖い出来事だったはずのものが、「人の心の表れだったのだ」と気づくことで、怖さはやがて静かな哀しみや不思議さへと変わっていく。その変化こそが、この話の本質とも言えるでしょう。