後ろを見なかった男が最後に見たもの

森の分岐点

 

うちの会社の部長が、若い頃に林業をやっていたらしい。

 

正直、林業がどんな仕事なのかよく分からない。

 

山で木を切ったり運んだりする仕事だろう、という程度の認識だ。

 

部長が働いていたのは昭和40年代。

 

山奥の作業場で使い走りのような仕事をしていた頃の話だという。

 

ある日、新人の若者、みんなから「アンちゃん子」と呼ばれていたらしいが、山を越えた先の作業場から麓の詰め所まで行かされることになった。

 

徒歩で片道2~3時間。

 

今なら車で済みそうな話だが、当時はそういう時代だったらしい。

 

出発前、親方が言った。

 

「もしかすると、山のイタズラ好きな妖怪が後を付けて来るかもしれんぞ」

 

アンちゃん子は本気で嫌がった。

 

「勘弁してくださいよ……」

 

最初は面白がって脅かしていた木こりたちも、さすがに怯えきった新人が気の毒になったのか、最後には励まし始めた。

 

その中で親方が言った言葉だけは妙に具体的だった。

 

「もし後ろに何か来ても、絶対に振り返るな。最後まで見なけりゃ、お前の勝ちだ。向こうも諦める」

 

そうしてアンちゃん子は山道へ送り出された。

 

最初は何もなかった。

 

だが、しばらく歩いた頃から気になり始めた。

 

誰かが後ろを歩いている気がする……。

 

気のせいだ。

 

そう思っても、どうしても気になる。

 

だが振り返れない。

 

親方の言葉が頭から離れない。

 

「絶対に後ろを見るな」

 

気配は徐々に近付いてきた。

 

そのうち真後ろではなく、横に回り込むようになった。

 

右から気配を感じる。

 

慌てて少し左を向く。

 

すると今度は左にいる。

 

まるで視界に入りたがっているみたいだった。

 

アンちゃん子は必死に前だけを見続けた。

 

だが人間の視界はそんなに都合よくできていない。

 

見たくなくても、端に何かが映りそうになる。

 

そのたびに首を少しずつ動かして避ける。

 

右へ。

 

左へ。

 

右へ。

 

左へ。

 

その時だった。

 

耳元で小さな音がした。

 

「かちっ」

 

しばらくしてまた。

 

「かぽっ」

 

何の音だろう。

 

最初はそう思った。

 

だが、ある瞬間に考えてしまった。

 

もし、自分の顔の横まで来た時に、そいつが口を開いているのだとしたら。

 

自分が反対側を向いた瞬間に口を閉じているのだとしたら。

 

「かちっ」

 

「かぽっ」

 

あれは歯の鳴る音なんじゃないか。

 

そう思った瞬間からダメだった。

 

顔のすぐ横に、生温かい息まで感じるようになった。

 

限界だった。

 

アンちゃん子は目を閉じて走り出した。

 

後ろの気配を振り切るように。

 

逃げろ。

 

逃げろ。

 

逃げろ。

 

必死に走る。

 

気配は遠ざかっていく。

 

やった。

 

逃げ切った。

 

そう思った次の瞬間……。

 

ドンッ!

 

もの凄い衝撃が顔を襲った。

 

目を開ける。

 

目の前に看板が立っていた。

 

そしてそこには、真っ赤なペンキで太い矢印が描かれていた。

 

 

反射的に上を見る。

 

そこには大木の枝。

 

その枝のさらに上、葉を掻き分けるようにして、真っ白な顔の女が覗いていた。

 

そして大きく裂けた赤い口を、ぱかっ、ぱくっ、ぱかっ、ぱくっ。

 

ゆっくり開いては閉じていた。

 

「かちっ」

 

「かぽっ」

 

今度ははっきり聞こえたという。

 

まあ、古典的な怪談だと思う。

 

でも俺が嫌だったのは、話そのものより部長の最後の一言だった。

 

「人って怪談好きだろ?聞いてる時は馬鹿にしてるんだけどさ、何年も経ってから急に思い出すんだよ。お前らも、酔っ払って深夜に帰る時なんかに思い出すかもしれないぞ」

 

俺はいつも深夜バスを降りてから団地を抜けて帰る。

 

その話を聞いて以来、ふと屋上を見上げるのが嫌になった。

 

3階建ての団地。

 

暗い屋上。

 

もしあそこから真っ白な顔の女が覗いていたら……。

 

そう考えてしまう。

 

もちろん、そんな者がいるわけがない。

 

分かっている。

 

でも怪談ってそういうものだ。

 

聞いたその日よりも、忘れた頃の方が、よほど怖い。

 

(終)

AIによる概要

この話が本当に伝えたいのは、「怪談の怖さは怪物そのものではなく、人間の想像力の中にある」ということだと思います。

話の中で、新人は最初から女の妖怪を見たわけではありません。親方に「後ろを見るな」と言われたことで、まず「何かいるかもしれない」という意識を植え付けられます。そして後ろから付いて来る気配を感じ、耳元で音を聞き、その正体について自分で考え始めます。音の正体も姿も分からないのに、「口を開け閉めしているんじゃないか」「歯の音なんじゃないか」と想像した瞬間から、恐怖はどんどん大きくなっていきます。

つまり、この話では妖怪が新人を怖がらせたというより、新人自身の頭の中で恐怖が育っていったのです。見えないものほど人は勝手に想像し、その想像が現実以上に恐ろしくなる。そこが怪談の本質として描かれています。

そして、このテーマは話の最後で現在の語り手にも引き継がれます。部長の怪談を聞いた語り手は、実際に何かを見たわけではないのに、深夜に団地を歩くたび「屋上から白い顔の女が見下ろしていたらどうしよう」と考えてしまうようになります。つまり、昔の山の怪談が、今度は別の人の頭の中で生き始めているのです。

だからこの話は、「山に妖怪がいた」という話ではありません。人は一度聞いた怪談を忘れたつもりでも、ふとした瞬間に思い出し、自分の身近な風景の中へ当てはめてしまう。そして何もない場所にまで恐怖を見出してしまう。そうやって怪談は人から人へ受け継がれ、増殖していく。そんな話なのだと思います。

部長の最後の言葉が印象的なのもそのためです。女の妖怪よりも、「そのうち思い出すぞ」という部長の一言の方が、結果的に語り手の頭の中へ長く残っています。怪談の恐ろしさは聞いている最中ではなく、忘れた頃に突然よみがえること。その瞬間こそが、この話が最も伝えたい部分なのではないでしょうか。

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