その坂には転ばせ様という鬼が棲んでいる
これは、友人の不思議な体験話。
彼の実家近くの山に、『転ばせ坂』と呼ばれる坂があるのだそうだ。
なんでも、そこには『転ばせ様』という鬼が棲んでおり、通りがかる者を転倒させるのだという。
何度もそこを通ったことのある彼は、その言い伝えを微塵も信じていなかった。
そして先日、帰郷した時のこと。
転ばせ坂を通りがかった彼は、盛大に転けてしまった。
まるで誰かに足を掴まれたかのようだった、と彼は言う。
擦り剥いた左肘を庇いながら身を起こす。
「あれっ?」
手首に巻いていたはずの腕時計が失くなっていた。
進学祝いに母が買ってくれた物だった。
必死になって辺りの草むらを探ったが、腕時計はどこにも見つからなかった。
落ち込んで家に帰ると、祖母が「どうしたの?」と聞いてきた。
事情を話すと、あらあらという顔をして話し始めた。
「転ばせ様が人を転ばせるのは、その人が身に付けている物が欲しいからだって言われとるよ。転ばせたその隙に、こっそり掠めちゃうんだって」
祖母はさらにこう教えてくれた。
「後で餅をついてあげるから、それ持って明日もう一度あそこに登っておいで。腕時計はどうしても要るからこの御餅と交換して下さいって、丁寧に頼むんだよ」
翌日、彼は餅を持参して山を登り、もう一度転ばせ坂に向かった。
半信半疑ながらも餅を掲げ、祖母に言われた口上を述べた。
「俺、何してるんだろう・・・」
ふっと我に返った瞬間、足をすくわれた。
あっという間もなく、再び盛大に転倒してしまう。
「痛たっ・・・」
涙を滲ませながら面を上げると、すぐ目の前に光る物が落ちていた。
昨日ここで失くした腕時計だった。
ハッと手の中を見ると、餅はどこにも見当たらない。
坂の上には呆けたような彼と、腕時計だけが残されていた。
(終)