自殺の名所で私が伝えられたこと
これは、5年前の夏の体験話。
私は人生に疲れ、自殺の名所に1人でやって来ていた。
そこは断崖絶壁で下に激しく波が打ちつける、飛び降りるとまず助からないであろう某名所。
自分の人生は何処から狂い始めたのか。
そんなことを考えながら、断崖から下の海を眺めていた。
近くの電話ボックスには、『自殺を考え直そう、まずここに電話を』と番号が書かれている。
時刻は午後9時17分。
場所が場所だけに私以外いるはずもなかったけれど、断崖から海を眺めていた私の背後に人の気配を感じた。
そこには、白いワンピースを着た女性が立っていた。
「あなたもですか?」
私は尋ねた。
女性は首を縦に振った。
「恥ずかしいですが、私は不器用で何をしてもうまくいかないのです。仕事を辞めてブラブラしていたのですが、とうとうこのような場所に来てしまいました」
女性は黙って私の話を聞いているようだった。
風が強く吹き、それはまるで私に”早く飛び降りろ”と催促しているように感じた。
すると、女性は崖の方へ手を差し出した。
どうぞ、お先に?と私に飛び降りろとアピールしているのか?
私は思わず、「それは自分で決めるから、そちらこそ先にどうぞ」とムキになって言ってしまった。
女性は相変わらず黙ってそこに立っている。
ただ、生気はまったく感じられなかった。
私は女性を無視して、自分もこの人から見ると同じように生気はないのだろうか…などと、要らぬ考えをしていた。
すると、背後からコツコツと女性が歩き出す音が聞こえてきた。
私は女性が、とうとう飛び降りるのか思って振り返ると、女性は先程と変わらない場所に黙って立っていた。
その時に気づいた。
私がいる方から右手側に、白いハイヒールが2つ揃えて置かれていた。
ハイヒールの先は断崖と海。
そして私は、はっと思い当たった。
私の背後の女性は裸足だった。
それなら、さっきのコツコツという音は?
私はもう一度、女性を見た。
女性は確かに裸足。
私は混乱した。
すると、女性がハイヒールの置いてある場所に向かって歩き始めた。
私は黙って見ているしかなかった。
次の瞬間、女性は断崖の下の海に身を投げてしまった。
私は一瞬呼吸が止まった。
女性が飛び降りた下を条件反射で見ようと覗き込んだけれど、女性の姿はなかった。
下では波が激しく断崖に向かって打ちつけている。
すると、後ろでまた人の気配がした。
私は振り返った。
すると、飛び降りたはずの女性がまた立っている。
「あなた、さっき飛び降りたはずでは…」
女性は黙って立っていたけれど、またハイヒールの置いてある崖沿いに向かって歩き出し、断崖から海に身を投げた。
まるで録画したテレビの気になる部分を連続して再生しているような感覚になった。
私は怖くなり、その場から走って逃げてしまったけれど、結局当初の目的だった自殺は出来なかった。
死ぬことの怖さや無意味さを、あの女性は教えてくれたのかもしれない。
(終)