見知らぬ人の願いを背負って
ある日のこと、出かけようと駅の切符売り場に向かっていた。
すると、後ろから声をかけられ振り向くと、50代くらいのおじさんが立っていた。
おじさんの話はこうだった。
・自分は大工の棟梁である。
・訳あって入院中だが、直前まで手掛けていた家の上棟式が今日だ。
・皆にバレると止められるので、黙って出てきた。
・今は持ち合わせがないが必ず返すので、行きの電車賃を貸して欲しい。
おじさんの必死な「行きたい!」という気持ちが伝わってきて、千円貸した。
そして私も切符を買って電車に乗ろうとした時、ふとおじさんの言っていたことを思い出した。
おじさんは黙って出てきた、と。
今頃病院では問題になっていないだろうか?
事情だけでも説明しておこうと、聞いていた病院に電話をかけた。
ちなみに、おじさんは病院名や病室の番号、それに自分の名前を言っていた。
「すみません、さっき駅で305号室に入院中の田中さんという方と会いまして、(中略)~と言った事情でお金をお貸しした者ですが…」※仮名
「はい、305号室の田中さんですね。少々お待ちください」
しばらく待っていると、保留音はなく向こうの声が少し聞こえる。
やっぱりすぐに伝えればよかったのかな?と思いつつ聞き耳を立てていると、何やら揉めているような声が聞こえ、別の看護師さんが電話口に出た。
「305号室の田中さんですか?」
「はい、ご本人はそう仰っていましたけど」
「何時頃ですか?」
「10分くらい前ですが」
「田中さんは今朝お亡くなりになりましたが…」
「えっ?」
しばらく無言の後、私は尋ねた。
「あの、どういうことですか?」
「ですから、田中さんは今朝…。なので10分前に駅にいることは…」
その時、受話器の向こうから怒鳴っているような声がした。
そして年配らしき看護師さんが電話口に出られ、「申し訳ございませんが、田中さんは今朝退院なされましたので、こちらにご連絡頂いても困ります」と。
「あっ、あの、お金を返して欲しいとかではなくて、黙って出てきたと仰っていたので、病院の方で心配しているといけないと思いご連絡差し上げただけですので。退院したならいいんです」
「はい、ご退院なされました。あの…、わざわざご連絡頂きありがとうございました」
「いえ、では失礼致します」
そうして電話を切った。
寸借詐欺など、たまたま身分を偽るために利用した人が今朝亡くなった方だったのか、ご本人だったのかは不明だが、おじさんが上棟式に行けていたらいいのになと思った。
(終)