可哀相って思われ続けてたら
もう10年くらい前になる。
夜勤終わりに家に帰ろうと、朝方いつもの田舎道を車で走っていた。
すると、車に轢かれたであろう犬の屍骸が横たわっていた。
俺はいつものように軽快なハンドルさばきでそれを回避する。
可哀想とも思うが、正直なところ車が汚れてしまうと思う気持ちの方が遥かに上回っていた。
そして家に帰り着き、そんな出来事を早くも忘れて豪快に朝食を食らっていた時だった。
「何だろう…。あの犬が無性に気になる」
急にそう思った。
どうしようもなく気の毒になってしまい、起きてきた母に言った。
「道で死んでいた犬、可哀相だからちょっと埋めてくるわ」
「はあ?」とだけ返す母。
俺は物置にあったスコップを手に取り、現場へ直行した。
車を降りて横たわった動物に近づくと、内臓が飛び出していて見るも無残の状況だった。
さらに近づき顔を覗き込むと、その動物は犬ではなかった。
キツネだった。
その時は「なんだ、キツネだったのか」くらいにしか思わなく、近くの川原に穴を掘り、軽く手を合わせて家に帰った。
途中だった朝食を食べながら、母に言った。
「たまには墓参りに行った方がいいかなあ?」
母は間を開けずに言葉を返す。
「あんた、それ以上は気にするのやめな。埋めに行ったのは偉いけど、可哀相、可哀相って思われ続けてたら、そのキツネいつまで経っても天国に行けないよ」
そう言われて、俺は目が覚めた気がした。
何やってるんだろうと、自分の行動を笑った。
今にして思えば、あのキツネに呼ばれたのか化かされたのか、本当に不思議な体験だった。
(終)
AIによる概要
この話が伝えたいのは、死者や動物への思いやりと、それがもたらす内面的な変化です。母の言葉は、過去の出来事や罪悪感に囚われ続けることが人の心に重荷となることを示唆しており、故人や動物が安らかに旅立つためには、残された者が思いに区切りをつけることが大切だというメッセージが込められています。埋葬した後で母から「可哀相に思い続けてはいけない」と言われ、ようやく自分の行動に気づき、自分の感情を手放します。また、「呼ばれたのか、化かされたのか」という最後の言葉は、日本の伝統的なキツネの霊的なイメージを喚起し、死後の世界や因果応報についても考えさせる余韻を残しています。