彼女との二人旅で遭遇した怪奇
今から十年前の冬、
当時付き合っていた彼女との
二人旅の話。
そのホテルは、
山に囲まれた湖の
湖畔に立っていた。
チェックインの後、
部屋で窓の外を眺めながら
くつろいでいると、
湖に浮かぶ一艘のボートに
目が留まった。
ボートには、白のTシャツに
若草色のパンツ姿の女性がいた。
女性は何やら
慌てふためいていた。
やがて、
手でメガホンの形を作り、
手前の岸に向かって
何か声を上げた。
距離があるためか、
声は全く聞こえてこなかった。
「何か見える?」
背後から、
彼女が声をかけてきた。
「あのボート、もしかして・・・」
「やだ、沈んでいるじゃない!」
フロントに、
湖で女性が溺れているから
救助してやってくれ、
と電話した。
「はぁ~」と、
気のない返事。
俺は部屋を飛び出して、
表に出た。
湖の水面は穏やかで、
波ひとつ立っていない。
ほとりにいた人たちに、
女性はどうなったのか訊ねてみた。
しかし皆、
ボートに乗った女性どころか、
ボートが湖に出ているところすら
見ていないという。
「本当に見ませんでしたか?
ほら、白の・・・」
俺は、そこで硬直してしまった。
気が付くと、周りの全員が
俺のことを不審に思っている。
立つ瀬が無くなり
視線を彷徨っていると、
白い板張りのボートハウスが
目に留まった。
管理人が何か
見ているんじゃないかと思い、
俺はそこへ向かった。
ホテルの部屋に戻ると、
彼女がガタガタと震えていた。
俺は彼女の肩を抱いて、
何かあったのか訊ねた。
「あの人、
しばらくこっちの岸に向かって
何か声を上げているんだけど
誰も気付かなくて、
そしたら窓から覗いている私に
気付いたみたいで、
私に向かって『助けて、助けて』と、
叫びながら沈んでいった。
すごく恨めしそうな顔をして・・・。
ねぇ、おかしいよね?
岸に向かって叫んでいた時は
何も聞こえなかったのに、
どうして私の方を向いた瞬間、
あの人の悲鳴が聞こえるの?
ベランダに出ていたのならともかく、
窓から覗いている私に
気付けるものなの?
大体、そもそも・・・」
「冬にTシャツ一枚は
おかしいよな?」
「うぅ、うん」
「湖のほとりにいた人に
訊ねてみたけど、
ボートなんて知らないって。
ボートハウスがあったから
管理人に聞こうと思ったんだけど、
『冬期休業中』って
看板があった。
ボートは全部、
陸に上げられていて、
ブルーシートを被せられていたよ。
少なくとも、勝手に
持ち出せるような状態にない。
よくよく考えてみれば、
こんな寒い中、
ボート遊びをする人なんて
いるわけがない」
「じゃぁ、じゃぁ、私たちが
ここから見たものは何なのっ?!」
しばらく沈黙した後、
俺の方から帰ろうかと誘った。
フロント係に適当な理由を挙げて、
宿泊のキャンセルを申し出た。
宿泊料の90%払うという
ホテル側の条件を飲んで、
俺たち二人は家に帰った。
今年の夏、
彼女から暑中見舞いをもらった。
彼女とはその後二年ほど付き合ったが、
俺の不徳により別れてしまった。
今は結婚して、
一児の母になっている。
暑中見舞いには、
次のことが書かれていた。
『○○さんは、あのホテルのことを
覚えていますか?
実は先日、主人から、
あのホテルに関する噂話を
聞いたのです。
主人が言うに、
あのホテルには女性の幽霊が
出るという噂があるのです。
夜な夜な、全身ずぶ濡れの
女性が枕元に現れ、
すごく恨めしそうな顔で、
「あんなに助けてと叫んだのに・・・」
と言って、泊り客をあの世へ
引きずり込もうとするそうです。
本当の話かどうかは分かりませんが、
「助けてと叫んだのに・・・」
というところが、
私たちの見たボートの女性と、
妙に符合するので気になります』
(終)