人を喰らう鬼女が棲む坂 1/2
これは友人から聞いた話だが、場所は諸事情により書けない。
ある気妙な経験から仏門に入った友人が、震災を期にまた付き合いが始まった。
震災後の安否確認の連絡網から消息不明だった友人(以下、A)と連絡が付き、震災も落ち着いた頃に「一緒に茶でも」という話になった。
坊さんに「酒でも」と言うわけにもいかなかったからだ。
Aは大学時代オカルト研に所属していて、別の友人の帰郷先の昔話をオカルト研の仲間と実践して酷い目に遭い、紆余曲折の末に今は僧侶見習いをしている。
と言うか、もうじき一人前になるらしい。
何をもって一人前かは知らないが。
今は随分と修行の成果があったのか、学生時分の浮ついたところがなくなり、落ち着いて昔話もできるようになった。
Aは仏門を叩くことになったきっかけの事件から不思議な体験を重ねたらしく、修行中に出くわした出来事を話してくれた。
とある村と鬼女の因縁
お使いで関東のとあるお寺に向かっていたのだが、なにせ修行中の身、駅からかなり離れているそのお寺まで徒歩で向かっていた。
これも修行の一環らしい。
その途中、山を削って通っている線路の上にある陸橋を渡ろうとした時、一人の老人が陸橋脇にしゃがみ込んで、お地蔵さんに手を合わせていたそうだ。
Aも見習いとはいえ坊さんの端くれ。
その老人の脇で手を合わせたんだそうだ。
すると、その老人はAに向かって深々とお辞儀をした後、Aをじっと見つめるとこう言った。
「あんた、鬼と何か関わったことがあるね?」
Aはびっくりして老人に問い返すと、老人はこの地蔵の事を話し始めた。
「このお地蔵さんはな、鬼女を鎮めるためにあるからのぉ」
老人の話だと、この辺りには昔、人を喰らう鬼女が住んでいたそうだ。
どこから流れ着いたのか、当時この山道を通る村人や旅人、子供をさらい、時には色仕掛けで誘っては、惨(むご)たらしく殺しては喰らっていたそうだ。
もちろん、時の領主は討伐の兵を派遣したりもしたが、鬼女の妖術の前には返り討ちに遭い、なすすべも無く・・・。
村人は、時には何も知らない旅人をこの道に、つまりは坂に生け贄として向かわせたこともあったそうだ。
そんな鬼女に怯えるある日、一人の旅の僧が村に訪れた。
僧は、初めは村人に騙されて鬼女のいる坂へと向かっていたが、何やらただならぬ空気を感じ取り、引き返して村人を問い詰めた。
観念した村人は鬼女の話を僧にすると、僧は「それなら自分が何とかしよう」と言い、日が良くないからと7日間の潔斎の後、鬼女の住む坂へと向かった。
※潔斎(けっさい)
神事などの前に、酒肉の飲食その他の行為を慎み、心身を清めること。物忌み。
その後、右腕を失った僧が村に帰って来ると、村の長にこう言った。
「坂に独鈷杵(どっこしょ)の刺さった石がある。それに鬼女を封じたが、今まで罪のない旅人を犠牲にした村にも因縁がある。そこで、その因縁を断ち切るためにも、腕を失った自分の代わりに手を合わせて鬼女を鎮める事と、鬼女の庵(いおり)があるので、そこで鬼女に喰われた者達の墓を六つ作って慰める事」を指示して、僧自身は腕を無くした自らの修行不足を恥じ、山へと帰って行った。
※庵(いおり)
草木を結びなどして作った質素な小屋、小さな家。
その後、六つの墓のあった辺りは『六石塚』、鬼女がいた坂は『どっこ坂』と呼ばれるようになった。
どっこ坂ではその後も村の人が鬼女を鎮めるために、旅の僧の指示通り、村を挙げての念仏が行われていたが、それでも時々鬼女の影が坂を彷徨(うろつ)くことがあったらしい。
そんな風習も今では失われて、地名も変わってその名前を覚えているのは年寄りだけだった。
そんな失われた風習が今でも残っているのには、それなりの理由があった。
それは、この田舎にも鉄道がやって来た時に事件が起こった。
鉄道はどっこ坂のある小山を切り開いて通ることになり、どっこ坂を真っ二つにするように線路が通った。
地元の人間はどっこ坂の昔話を知っているので鉄道の工事には反対したらしいが、用地は県の所有だし、どっこ坂の鬼女を封じた石は鉄道の方で移動して祀る事になったしで、結局は押し切られることになった。
ところが、ここはこの路線でも予想外の随分な難工事になってしまい、工事中に何人か人死にも出たらしい。
それは工事中の事故だけでなく、自殺や変死もあった。
地元の人達は「言わんこっちゃない・・・」と、鬼女の祟りがこっちに来ないように戦々恐々だった。
それでも人の命の安かった時代、無理矢理にも鉄道は開通し、どっこ坂は無くなり、その後は人死にが出ることもなくなり、人々はどっこ坂を忘れていった。
ところが、ここに一本の道路が通ったことで、また事件が起こり始める。
(続く)人を喰らう鬼女が棲む坂 2/2
坊さんなのに神道がするようなことするのか、神仏はもう別れた時代の話だろうに