先輩がいつも練習している部屋で
大学で実際にあった洒落にならない話。
俺の通っている大学は、山のてっぺんにある。
町から相当隔離された場所にあり、最寄のコンビニですらジグザグの山道を通って車で片道10分はかかってしまう。
そんな環境であるため、サークル活動や研究室などの特殊な用事でもない限り、遅くまで大学に居残る学生はほとんどいない。
しかし、10棟程度に分かれている大学校舎の中の一つに『音楽棟』という建物があり、そこでは夜遅くまで学生がヴァイオリンやピアノ等の楽器を練習している。
音楽棟には50以上の個室の全てにピアノが一台ずつ入っているのだが、学生はそれぞれ自分なりにお気に入りの個室があるようで・・・。
あの女はどこの誰なのか
その日の夜、俺は音楽棟で楽器の練習をしていた。
時刻は21時半頃だった。
終バスが22時なので、そのくらいの時間になると学生の数はかなり減っている。
山中であるため、終バスに乗り遅れると下山は困難を極めるのだ。
俺もそろそろ帰るかと思ったその時、やや離れた場所から「ドカッ!」と何かがぶつかるような音がした。
誰かが楽器でも落としたのだろうかと思ったが、あまり気にせず個室を出ようとすると、またもや「ドカンッ!」という音がした。
さてはアレだなと思った。
音楽棟はだいぶ老朽化しているため、壊れているドアがいくつかある。
ある程度ちゃんとした校舎を持つ学校に通う学生には信じ難いかもしれないが、この大学では運が悪いと自力で個室の中から出られなくなることもしばしば起こるのだ。
部屋の中からドアを開けようとしている音に違いない。
前にも閉じ込められた友人を救出した経験があったからこそ確信があった。
すぐさま音のした個室の方へ行って、個室にある窓から中を覗いてみる。
案の定、ドアを何とか開けようとしている学生らしき姿があった。
「今開けますよ~」と一声かけてから、ドアノブをやや強引に捻って開けた。
「ありがとうございます。出ようとしたらドアが開かなくなっちゃって・・・」
初めて見る顔だった。
音楽棟に夜遅くまで残って練習している人間は大体把握できているつもりだったが、目の前にいるのは全く知らない女の子だった。
他大生だろうか・・・?
原則として学外の人間は個室を使っていけない事になっているが、まぁいいかと思い、「練習お疲れ様です」と言った。
その時、本当に一瞬の事だった。
その女の子の表情が歪み、恐ろしい顔つきになったのだ。
そして、さっきの顔が嘘だったように一瞬で元の表情に戻った。
「ここ、私のお気に入りの部屋なんです」
「え?そうなんですか?」
俺は喋りながら変な違和感と緊張を感じていた。
何かこの女、おかしい・・・。
今の顔は何だったんだ?
いや、それ以前にもっとおかしな事がある。
「ずっと使っていたんですけど、いきなり開かなくなったからびっくりして・・・」
そんな事は聞いていない。
お気に入り?
誰の・・・?
「本当にありがとうございました」
そう言ってその女はスタスタと歩いて行ってしまった。
俺は結局、何も聞けなかった。
この個室の番号は『31』。
俺のよく知る先輩がいつも練習している部屋だった。
いつも夜遅くまで練習している努力家で熱心な先輩。
その先輩が居なくて、知らない女がいた。
俺はどうしても気になって、すぐに携帯電話で先輩に聞いてみることにした。
意外にもすぐに繋がった。
どうやら今までずっと学外で過ごしていたとの事だった。
授業は1コマから入っていたそうだが、どうも気が進まなくて・・・と曖昧な返事だった。
そこで練習室の女の事を言ってみた。
先輩はしばらく絶句していたが、重い口調で話してくれた。
「誰にも言うなよ・・・。昨日、脅迫を受けたんだ」
話によると、昨日の夜、アパートで一人暮らしの先輩が家に帰宅すると、郵便受けに大量の紙が詰まっていた。
何十枚もの紙の全てに、『学校に来るな』と一言、印刷されていた。
気味が悪くなって学校には行かず、一日中、町に下りて過ごしていたそうだ。
警察に届けようと思ったが、思いとどまっていたらしい。
「あの女って誰なんですか?心当たりなどは?」
「いや、あるわけない。ないけど、お前の話を聞いて余計に怖くなった。とりあえず何とかしようと思う」
その会話を最後に、俺は今に至るまで先輩に会っていない。
アパートは空っぽ、実家への連絡すら1年以上もない状態らしい。
完全に失踪してしまった。
もちろん、あの女ともあれ以来、会っていない。
先輩の友達が親御さんに何度か尋ねてみたらしいが、「まだ帰って来てない」との事。
アパートは家賃が無駄だからと既に手放していて、当てにしていないが捜索願いも提出済みらしい。
先輩は音楽系の2つのサークルを掛け持ちでやっていて、学外での人間関係の幅が広かったから、周囲の人達も不審に思っていた。
あの時の女がどこの誰で、個室で一体何をしていたのか、今でも分からない。
(終)