もう使わないんじゃないかな
小学5年生の頃に、スポーツ少年団の野球クラブに入っていた時のこと。
一つ上の先輩に山川さん(仮名)という人がいて、レギュラーの一塁手だった。
そして俺は1塁の控えだったから、よく二人で話をしていた。
山川さんの家は母子家庭で、母親の仕事が忙しくて試合の応援には来られないし、家に車がないから送り迎えの当番にも入っていなかった。
それに、スパイクは卒業生のお下がりで古かったし、ファーストミットはクラブの備品をいつも使っていた。
山川さんは背が高くてファーストの守備は上手かったけれど、ミットがクニャクニャだったのでいつもやりづらそうにしていた。
それでも落球することはほとんどなかった。
その山川さんがある日、新品のミットを持ってきた。
たぶん買ってもらったんだと思う。
使った後は丁寧に砂を落とし、クリームを塗ってすごく大事にしていた。
えー?俺そんなこと言った?
そのミットが、夏前でもうすぐ大事な大会がある時期の練習の後に、ベンチの下に忘れていったのを俺は見つけた。
山川さんが帰ってからまだそれほど時間が経っていなかったし、うちの家とは方向が途中まで同じだからミットを持って急いで追いかけた。
3分ほど走った頃、山川さんがスポーツバッグを持って歩いている姿が見えたので、追い付くや「ミット忘れてましたよ」と言って渡した。
すると、山川さんはぽけっとした様子で俺の方を見てから、「ああ・・・そうか、ありがと・・・。でももう使わないんじゃないかな」と答えた。
山川さんはミットを受け取ってバッグにしまったんだけれど、その時の顔がすごく白かったのを覚えている。
次の日も練習があり、山川さんに「昨日、ミットを使わないかもしれないと言ってたけど・・・」という話をすると、「えー?俺そんなこと言った?全然覚えてない」と普通に言う。
話はそれで終わり、その後は俺も気にしなくなった。
しかし山川さんはその日、帰ってから家で食中毒になり、緊急入院したが2日後に亡くなった。
もちろん自殺でもないし、犯罪被害に遭ったなどでもないと思う。
・・・が、それ以来、あの時に山川さんが言った『もう使わないんじゃないかな』という言葉が頭に浮かんでくることがある。
(終)