所々の一字が切り取られた落人の経文
『落人の伝説』というのは各地にあるのだろうか。
最も有名なのは義経だと思うが、現在私が住んでいる四国の某地方にも、落人の伝説とそれにまつわる怖話がある。
※落人(おちうど)
戦に負け、人目を避けて逃げていく人。
薬の代わりに飲むもの
その落人は、源平合戦の時に壇ノ浦に沈んだといわれる幼少の天皇なのだが、実は生きていて四国の某地方を過ぎ、さらに海を渡って南方に向かっていったという伝説だ。
天皇と一行が集落の菩提寺に泊まった時に、礼として書き溜めておいた経文を当時の住職に下した。
そのような謂(いわ)れのある物が未だに寺に残っているのだが、経文は所々が虫食いになって穴が開いている。
これは紙魚に食われたわけではなく、一字を小刀で切り取ったような四角い穴があちこちに開いているものだ。
どういうことかと言えば、まともな薬も医師もなかった時代に、病人が出た家の者が住職のところにやって来ると、うやうやしく経文から一字を切り取って与えたという。
そして病人は念仏を唱えながら、その字を飲み込む。
現代の医学で考えるとプラセボ以外の効果はないと思われるが、それでも治る人もいたのだろう。
※プラセボ効果
効き目のある薬を服用している、と本人が思い込むことによって病気を治す効果。偽薬。
江戸初期頃ではないかと思われるが、ある漁民の家に病人が出た。
漁師の高齢の母親で、寺から経字を切ってもらって飲ませたものの、一向によくなる様子もない。
ところで、経文には切ってはならない字というのがあり、それは経を書いたとされる天皇の名である二文字だ。
この二字だけは切り取ると、たちどころによくないことが起きるという伝えが、長い年月のうちに出来ていたようだ。
ところが、母親が明日をも知れぬ容態となった漁師は、万一にとの望みを賭け、寺の庫裏に忍び込み、わざとその二文字だけを切ってきたという。
そして母親に飲ませた。
すると、にわかに具合が良くなってきたように思える。
漁師は喜んで、母親を筵(むしろ)を下げて隔てた納戸に寝かせておいた。
※筵(むしろ)
藁(わら)やイグサなどの草で編んだ簡素な敷物。
その晩のこと、「ばしゃん、ばしゃん」という水音で漁師は目を覚ました。
音は母親のいる納戸の方から聞こえるようだ。
そこで起き上がって筵を捲くり、あっと驚いた。
狭い納戸の中は水浸しで、さらに母親の姿はなく、六尺を超す白いイカともタコとも判別のつかない生き物がのたうっていたのだそうだ。
その生き物は少し明かりが差したのに気づいてか、呆然としていた漁師を押し退けると、のたくりながら海へと向かっていったという。
そして、母親の姿はどこにも見つからなかった。
(終)
禁断の二文字って「安」と「徳」かな?