この人は本当に僕の母なのか
これは、パラレルワールドやドッペルゲンガーのような、ちょっと不思議な体験をした話。
ある日の夕方、僕が高校から帰って来たら、母が台所で料理をしていた。
帰宅部の僕が家に帰るのは、大体18時半頃。
なので、母が料理していることは至って日常。
だが、その頃の母はパートを始めていて、週の3日程は帰りが19時過ぎになるから居るとは思ってもいなかった。
「今日はパートの日だからね」と朝の出がけに言っていたはずなのに、早く帰ったのかな?なんて思いながらも「ただいま~」と言って、自分の部屋で着替えて居間へ行く。
そして、ゴロっと横になってテレビをつける。
居間の先にある台所では、母が「おかえり」と振り向きもせず答えた。
うちは父、母、僕と妹の4人家族で、小さな戸建て住まい。
テニス部で頑張っていた妹の帰りは、大体20時前。
地方の信金で営業をやっていた父の帰りは、毎日が午前様のような感じだった。
居間のちゃぶ台の上にはクリームどら焼きが4つ出してあり、『1人2つまで』と書かれたメモがある。
小腹が空いていた僕は、メモの通りに2つ食べ、保温ポットでお茶を入れた。
すると母が、「シチューもうすぐ出来るけど先に食べる?」と、こちらも向かずに聞いてきた。
「いや、今どら焼き食ったからいいよ」
母の背中に向かって答える。
そこで、フッと気がついた。
そういえば今日は母が居るのにどうしておやつを出してあるんだ?
僕がいつも勝手に妹の分まで食べるからという理由で、母が家に居る時は、おやつはちゃぶ台に出していないはずなのに。
いつもと違うことが重なり、急に不信感を覚える。
母の背中を見る。
パーマのかかった肩までの髪、ずんぐりした小さな背中、いつもはいている紺色のズボン、間違いなく母だ。
ただ、帰ってから一度も顔を見せない。
もしかして仕事をクビにでもなったのかな?
機嫌が悪いのかな?
そんなことを考えていると、「そうだね。亜美(妹)も帰って来たら3人で『せえの』で食べようか」と、僕の詮索に被せるように言ってきた。
「うん、まだいいよ」と答える僕。
ただ、せえので食べるっていうのはどういう意味なんだ?
そうツッコミたかったが、言葉を飲み込み、じっと母の背中を見る。
くつくつとなる鍋を見下ろし、こちらを向く気配はない。
今この台所で料理をしているこの人は、本当の母か?
顔を確認してみるか?
でも、もし顔を見て、赤の他人だったらどうしよう?
いや、他人ならいいが、もし違う何かだったら?
僕は立ち上がり、「ちょっと走って来るよ」と玄関へ急いだ。
当時マラソン大会に備えたり、単に体力づくりで走っていたりしていたから。
バタバタと靴を履いて家を出る。
門の扉を閉めて振り向くと、なぜか居間も台所も暗かった。
いつも走るコースを少し急ぎ目に2週し、30分くらい経った頃に家へと向かった。
すると、買い物袋を幾つかぶら下げた母が、ちょうど門の扉を開こうとしている。
僕に気づくと、「あら、今なの?」と笑った。
「あれ?シチューは?」と返す僕。
「シチュー?シチューはねぇ、時間かかるから。今日は時間ないし野菜炒めとかでいい?」
「うん、なんでもいいよ。ごめん」
2人で暗い玄関に明かりを点けながら、台所へ続く廊下を抜け、台所へ向かった。
台所は暗く、人気はない。
家の中の明かりを点けたところ、おそらく朝出て行ったままだろうという状態があった。
そんなことがあってから年月が過ぎ、僕も妹も県外の大学へ進み、その後に自立した。
僕は東京でサラリーマンを、妹は県外の大手デパートで働いている。
そして最近、母が旅行のついでにと、東京まで足を延ばして僕の家に泊まることに。
その日は土曜日で、一緒に銀座へ行ってご飯を食べ、うちに泊まりに来た。
夜に2人でビールを飲みながら、「実は…そんなことがあったんだよね」と、あの時の話をした。
すると母は暫く黙り込み、下を向いたまま言った。
「お母さんね、あの頃は相当参ってて。お父さん帰って来なかったでしょ?あれね、実は他所に女性がいて、離婚の話もしてたのよ。だからお母さん慌ててパートを始めてね。
だけど久し振りの仕事だからなかなか慣れなくて、イジメみたいなのもあってね。こんなに毎日がツラいのなら、いっそ死んでしまおうかと思ったこともあったの」と。
その後に続けて、「あなたたちも一緒に、ね」と小さく呟いた。
「勿論そんなことするわけないけど、それくらいツラかったのね。お父さんが浮気相手にフラれて良かったよね、ほんとに」と続け、「だから、それは本当に私の生霊だったのかもしれないね」と、顔を上げて笑った。
確かに、あの時に僕が体験したことは不可解だったが、僕自身は母の言うような生霊的なものではなく、台所で料理していたのは本当の母だったと思っている。
パート中に抜けて料理をしていたということではなく、あの時、あの町では、僕たちの家で料理をしていた母と、パート先で働いていた母が居たのでは、という見解だ。
もしあの時、僕がどら焼きを食べずにシチューを食べていたら、僕の居ない世界があり、それが歴史になっていたパラレルワールドの分岐点だったのではないだろうか。
余談だが、父の浮気相手だった女性は、交通事故でもう亡くなっている。
母はフラれたと笑っていたが、本当のところは死別だ。
(終)