いつものように遺影に話しかけていると
これは、知人に聞いた話。
彼は若い時から、同い年の奥方と仲睦まじい夫婦として評判だった。
残念ながら子供はなかったが、その分いつまでも恋人気分で、二人きりの生活を楽しんでいた。
ところが、五十代半ばという若さで、奥方は不慮の事故で亡くなってしまった。
彼は深く悲しみ、しばらくは食事も手につかないほどだったいう。
ある朝のこと。
目覚めた彼は、いつものように遺影の奥方に挨拶をした。
すると、遺影から「おはよう」と返事があったのだ。
その後も彼が遺影に話しかけると、オウム返しのような返事が返ってきた。
写真の裏に何か仕掛けがあるのかとも疑ったがそんなことはなく、声は幽霊か幻聴か、そのどちらかであると思った。
しかし、彼にとってはどちらでも関係なかった。
最初こそ驚いたものの、懐かしく優しい奥方の声が、在りしの日のように自分に語りかけてくれることが何よりも嬉しかったのだ。
朝な夕な、食事時、出勤時と帰宅時と、まるで生きていた時のように奥方の写真に話しかけていると、そのうちオウム返しだった返事も変化してきた。
奥方の方から声をかけてくれるようになり、「お疲れさま」、「今日は何をしたの?」と問いかけてくれるようになった。
ところがそんな生活が半年も続いた頃、彼は家に帰るのが億劫になっていた。
あれほど嬉しく感じていた奥方の言葉が、負担になっていたのだ。
「おはよう、あなた。今日は何をするの?」
「どこに行くの?誰と出かけるの?お帰りはいつ?」
「今日は何があった?夕飯は何を食べるの?」
生前の彼女はこんなにも詮索好きだったかと、自分の記憶を疑ってしまうほど、奥方は彼の行動を逐一知りたがった。
どうやら奥方は写真の周辺から動けないようで、それならば自由のない彼女が自分のことを知りたがるのは当然だと、彼は度重なる詮索に忍耐で答えていた。
しかし彼女の詮索は、次第に干渉と束縛へと変わっていった。
「あなた、お疲れじゃない?今日はお仕事お休みしたら?」
「出かけないで家にいてよ」
「ずっと私と一緒にいてよ」
とうとう、彼も堪忍袋の尾が切れた。
「いい加減にしろ。お前は幽霊だからいいだろうが、生きてる俺は食わなきゃならんし、そのためには働かなきゃならんのだ。そんなこともわからなくなったのか。少し黙ってろ!」
そんな風に彼が奥方に怒鳴ったのは初めてのことだった。
奥方はしばらく黙っていたが、やがて一言「そう」と呟いた。
そしてそれきり、彼に話しかけることはなくなったという。
「奥さん、成仏できたんですね。少し寂しくなったかもしれませんが、よかったですね」
私は心底ホッとしてそう言った。
しかし、彼は意外そうな顔をして首を振った。
「いやいや、彼女は成仏なんてしていませんよ。喋らなくなった分、動き回れるようになったみたいでね。今じゃ僕にぴったりくっ付いて、あちこち出歩くのを楽しんでいるみたいですよ」
ごく当たり前のことのようにそう話す彼に、私は愛想笑いをしながら、背中に氷が走るような感覚を味わったのだった。
(終)