異界 3/4
それでもしばらく上ると、
たたみ二畳程の広さで
地面が水平になっている場所に出た。
そこにも人の生活の気配が伺えた。
灰の詰まった一斗缶。
黒い液体が溜まった鍋。
木の根もとに並べられた
ビールの缶。
枝に吊るされたビニール傘。
先の欠けた包丁。
そして小さなテント。
僕は足を止めて
そのテントを見やった。
異様だったからだ。
三脚のように木材を三本
縦に組み合わせて縛り、
その周りをブルーシートで
覆っている。
高さは僕のみぞおち辺りで、
人が入れる大きさではなかった。
一体、
何のためのテントなのか。
テントの周りには
ハエが飛んでいた。
虫の羽音。
そして、羽音とはまた別の
音が聞こえる。
タ。
タ。
タ。
それは、
閉め忘れた蛇口から落ちた水滴が、
シンクを叩く音に似ていた。
地面と僅かに出来た
数センチの隙間。
覗くと、銀色をした何かが
テントの中に置かれていた。
鍋のようだった。
おそらく鍋は受け皿で、
あの中に水滴が落ちている。
ハエが飛ぶ。
僕の心臓がやけに早く動く。
異臭。
僅かに風向きが変わったのか。
生臭い匂いだった。
以前にも嗅いだ事がある。
確か小さな頃、
目の前で交通事故が起こった時だ。
匂いの質は同じだけれど、
あの時よりももっと酷い匂い。
鼓動が骨を伝わり、
足が震えだした。
どこか遠くで
犬の鳴き声がした。
公園に住みつく
野良犬だろうか。
首を切られ、横たわって
死んでいた犬を思い出す。
現在、テントの外に置いてある
鍋の中には、
なみなみと黒い液体。
赤黒い液体。
いや違う。
血だ。
血の匂い。
タ。
タ。
タ。
水滴がシンクを叩く音。
僕は混乱していた。
早くこの場から去りたいのに、
足が動かなかった。
それどころか、
足が勝手に動き、
自分の腕が青いテントに向かって
伸びていた。
めくろうとしているのだ。
中を見ようとしているのだ。
やめろ。
声は出ず、心の内で叫ぶも、
僕は止まらなかった。
そうして僕は、
ブルーシートをめくった。
臭気が這い出て来る。
何匹かのハエが
僕の行動に驚いてか、
テントの傍を離れた。
息を飲んだ。
中には一匹の犬が
逆さに吊られていた。
喉元が裂かれていて、
傷口から血が鍋の中へ
滴り落ちている。
黒い犬だ。
舌が垂れ、
見開いた目が地面を睨んでいた。
タ。
タ。
タ。
血が鍋の底を叩く音。
僕の手が驚くほど緩慢な動きで
ゆっくりとシートを元に戻した。
足も手も震えて、
声にならない声が
腹の奥から上がってきて、
今にも叫び出しそうだった。
懸命に自分を抑える。
息が荒くなっていた。
上手く呼吸が出来ない。
その場にしゃがみ、
胸の辺りを掴み、
目を瞑り、
落ち着くまで待とうとした。
「何しゆうぞ」
人の声がした。
振り向くと、
そこに人間がいた。
どうやら僕は
自分のことに精いっぱいで、
近づいて来る足音にも
気付かなかったらしい。
男だった。
赤いニット帽を被っている。
革のバッグを背負い、
黒いジャンパー、
履いているのは青いジャージだ。
顔には無数のしわが刻まれていて、
頬が少し垂れている。
年齢は良く分からなかったが、
六十代の半分は過ぎているだろうか。
男は、ぐっと腰を曲げて、
しわの延長線上のような
細い瞼の奥にある光の無い目で、
僕のことを見つめていた。
僕は何も反応が出来なかった。
男はそれから青いテントに
目を移した。
「・・・ああ、ああ、見たんか。
兄ちゃん。そうか」
ぼそりぼそりとそう言って、
それから低く笑った。
「見えんようにと被せたんにのう」
その時の僕は、
今しがた見てしまったモノに
対するショックと、
突然現れたこの人物に
対する驚きで、
身体も精神も固まっていた。
どうやら人間は、
許容量を遥かに超える
負荷をかけられると、
肝心な部分がどこかへ
行ってしまうらしい。
男はその手に犬を抱いていた。
死んでいる。
僕が先程見た眼球のない犬だ。
僕は夢でも見ているような
ぼんやりとした心持ちで、
その光景を眺めていた。
「ああ、こいつか?
こいつぁ、おれの犬だな」
男は僕の視線に気が付いたのか、
そう言った。
「こいつぁな、野村のヤツが殺した。
おれが留守にしとる間に。・・・
そうに決まっとる。
犬嫌いやけぇあいつは・・・、
俺の犬や言うとろうが。
俺が骨もやっとったし、
紐も付けとる。
やのに、野村のヤツが・・・」
ぶつぶつと誰も居ない茂みへ
忌々しげに吐き捨てると、
男はもう一度
僕の目を覗き込み、
こう続けた。
「兄ちゃん。
勘違いしたらいかん。
・・・こいつは食わんぞ?
俺の犬やきの」
男は歯がだいぶ欠けていた。
(続く)異界 4/4へ