血(後編) 2/3

フラスコ

 

「好血症ってやつですか」

 

そこまで息を呑んで聞いていた俺だが、

思わず口を挟んだ。

 

※好血症(こうけつしょう)

血を飲むことに夢中になっている人の事。病気ではなく、性的倒錯だったりする。ヴァンパフィリアなどとも呼ばれる。

 

京介さんはビールを開けながら

首を横に振った。

 

「いや、そんな上等なものじゃない。

ノー・フェイトだ」

 

「え?なんですか?」

 

と聞き返したが、

 

今にして思うと、

 

その言葉は京介さんの

口癖のようなもので、

 

no fate 、

 

つまり、『運命ではない』という言葉を、

京介さんなりの意味合いで使っていたようだ。

 

それは、『意思』と言い換えることが

できると思う。

 

この場合で言うなら、

 

間崎京子が血を飲むのは、

己の意思の体現だというのことだ。

 

※体現(たいげん)

思想や観念などを具体的な形であらわすこと。身をもって実現すること。

 

「昔、生物の授業中に、

 

先生が『卵が先か鶏が先か』

って話をしたことがある。

 

後ろの席だった京子が、

ボソッと『卵が先よね』って言うんだ。

 

どうしてだって聞いたら、

なんて言ったと思う?

 

『卵こそ変化そのものだから』」

 

京介さんは次のビールに手を伸ばした。

 

俺はソファに正座という変な格好で

それを聞いている。

 

「あいつは『変化』ってものに対して

異常な憧憬を持っている。

 

※憧憬(しょうけい)

あこがれること。

 

それは、

自分を変えたいなんていう、

 

思春期の女子にありがちな

思いとは次元が違う。

 

例えば悪魔が目の前に現れて、

 

『お前を魔物にしてやろう』

 

って言ったら、

あいつは何の迷いもなく断るだろう。

 

そして、

たぶんこう言うんだ。

 

『成り方だけを教えて』」

 

間崎京子は、

 

異臭のする涙滴型のフラスコの中身を

排水溝に撒きながら口を開いた。

 

「ドラキュラって、

ドラゴンの息子って意味なんですって。

 

知ってる?

 

ワラキアの公王ヴラド2世って人は、

 

竜公とあだ名された

神聖ローマ帝国の騎士だったけど、

 

その息子のヴラド3世は、

串刺し公って異名の歴史的虐殺者よ。

 

Draculの子だからDracula。

 

でも彼は竜にはならなかった」

 

恍惚の表情を浮かべてそう言うのだ。

 

※恍惚(こうこつ)

物事に心を奪われて、うっとりするさま。

 

「きっと変身願望が強かったのよ。

 

英雄の子供だって、

好きなものになりたいわ」

 

「だからお前も吸血鬼ドラキュラの

真似事で変身できるつもりか」

 

京介さんはそう言うと、

 

いきなり間崎京子の手から

ガラス瓶を奪い取った。

 

そして蓋を取ると、

ためらいもなく中身を口に流し込んだ。

 

呆気にとられる間崎京子に、

むせながら瓶を投げ返す。

 

「たかが血だ。

水分と鉄分とヘモグロビンだ。

 

こんなことで何か特別な人間に

なったつもりか。

 

ならこれで私も同じだ。

お前だけじゃない。

 

占いなんていう名目で、

脅すように同級生から集めなくったって、

 

すっぽんでも買って来て

その血を飲んでればいいんだ」

 

まくしたてる京介さんに、

 

間崎京子は面食らうどころか、

やがて目を輝かせて、

 

この上ない笑顔を浮かべる。

 

「やっぱり、あなた、素晴らしい」

 

そして、

 

両手を京介さんの頬の高さに上げて

近寄って来ようとした時、

 

「ギャー」という、

つんざくような悲鳴があがった。

 

※つんざく

耳に障る ・ 耳を塞ぎたくなる ・ 耳をふさぎたくなる。

 

振り返ると、

閉めたはずの入り口のドアが開き、

 

数人の女生徒が恐怖に引き攣った顔で

こっちを見ている。

 

口元の血を拭う京介さんと

目が合った中の一人が、

 

崩れ落ちるように倒れた。

 

そして、

ギャーギャーと喚きながら、

 

その子を数人で抱えて

転がるように逃げていった。

 

第二理科室に残された二人は

顔を見合わせた。

 

やがて、間崎京子が「あーあ」と

なげやりな溜息をつくと、

 

テーブルの上に腰をかける。

 

「この遊びもこれでおしまい。

あなたのせいとは言わないわ。

 

同罪だしね」

 

悪びれもせず、

屈託のない笑顔でそう言う。

 

京介さんはこれから起こるだろう

煩わしい事にうんざりした調子で、

 

隣りに並ぶように腰掛ける。

 

「おまえと一緒にいると、

ロクなことになった試しがない」

 

「ええ、

あなたは完全に冤罪だしね」

 

「私も血を飲んだんだ。

おまえと同じだ」

 

「あら」

 

と言うと嬉しそうな顔をして、

 

間崎京子は肩を落とす京介さんの

耳元に唇を寄せて囁いた。

 

「あの血はわたしの血よ」

 

それを聞いた瞬間、

京介さんは吐いた。

 

俺は微動だにせず、

正座のままでその話を聞いていた。

 

「それで停学ですか」

 

京介さんは頷いて、

空になったビール缶をテーブルに置く。

 

誰もが近づくなと言った訳が

わかる気がする。

 

間崎京子という女はやばすぎる。

 

「高校卒業してからは付き合いがないけど、

あいつは今頃何に変身してるかな」

 

やばい。

 

ヤバイ。

 

俺の小動物的直感がそう告げる。

 

(続く)血(後編) 3/3

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