追跡 5/5
彼女が上着を脱いで、
師匠の背中に被せる。
俺たちは無言で歩き続けた。
どこかタクシーを拾える所まで
行かなくてはならない。
やがて、
師匠が熱に浮かされたのか、
半分眠りながらうわ言めいたことを
ぼそぼそと繰り返し始めた。
俺は、
ともかくこれですべて解決したと
安堵しつつも、
『追跡』の続きが気になっていた。
廃工場に着いてからの見開き4ページ分で、
師匠の救出に成功しているにもかかわらず、
その最後にはこうあったのだ。
心の準備が出来るまで、
次のページには行かない方が良い。
このあと、
一体何があるというのだろう。
俺は師匠がずり落ちないように苦心しながら
片手で『追跡』を取り出して、
口にくわえたペンライトをかざす。
心の準備・・・
なんのためのだろう。
またドキドキし始めた心臓を鎮めながら、
俺はゆっくりとページをめくった。
彼がうわ言で女の名前を口にした途端、
その背中に鋭利な刃物が突き立った。
ゾクッとした。
一瞬、歩調が乱れる。
鋭利な刃物。
そんなものがどこから来るのか。
決まっている。
ここには俺と師匠の他には、
あの人しかいない。
コツコツと足音が背後からついて来る。
背中の師匠が邪魔で、
後ろが見えない。
だが、そこにはあの人しか
いないじゃないか。
すべてが繋がって来る。
『追跡』の中の主人公は、
一人で行動しているように見える。
だからこそ、
現実で同行すると言い出した彼女の役割は、
ただの観察者に過ぎなかったはずだ。
しかし、
妙な引っ掛かりを感じていたのも事実だ。
冒頭のゲームセンターのプリクラ。
これはまだいい。
一人で撮る変わった奴もいるだろう。
雑貨屋やら喫茶店、
ボーリング場も一人で入ったっていい。
けれど、
ラブホテルだけはどうだ。
『追跡』の主人公は果たして、
一人で部屋に入ったというのだろうか。
『追跡』は極端に省略された
文章を使っているが、
もしかすると、
意図的にもう一人の同行者の存在を
隠していたのかも知れない。
つまり、
彼女の役割はイレギュラーな
観察者などではなく、
れっきとした登場人物なのかも
知れないじゃないか。
俺は神経が針金のように
研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。
場所は図らずも、
さっき『うしろすがた』に会った、
空き地の前だ。
師匠はむにゃむにゃと、
うわ言を繰り返している。
その言葉は不明瞭で、
ほとんど聞き取れない。
後ろ頭にかかる師匠の息が熱い。
『追跡』は師匠が刺される場面で、
唐突に終わっている。
バッドエンドだ。
救いなど無い。
彼女は本当にこれに書いた内容を
覚えていないのだろうか。
この最後のページを見せないために、
順番通りに読んでいくべきだと
言ったんじゃないのか。
でも彼女は今、
刃物なんて持っているのか。
いや、
小さなバッグがある。
そして、
彼女が雑貨屋で買ったものはなんだ?
血染めのピコピコハンマーをやめて、
最後に選んだものはなんだった?
思考と疑惑が、
頭の中でぐるぐると回る。
足はなぜか止められない。
彼女は今、
後ろで何をしている?
そして、
決定的な時がやって来た。
師匠のうわ言が一際大きくなり、
俺にもはっきり聞こえる声がこう言った。
「・・・・・・綾・・・」
その瞬間、
時間が止まったような錯覚を覚え、
俺は自分の心臓の音だけを聞いていた。
彼女が足音を響かせて近づいて来る。
そして、
優しい声で言うのだ。
「なあに」
師匠は眠ってしまったようだ。
寝息が聞こえてくる。
俺はまだドキドキしている胸を
撫で下ろして、
師匠がこの状況下で
彼女の名前を呟いたことに、
不思議な感動を覚えていた。
後日、
怪我の治ったという、
師匠のアパートへ行った。
「迷惑をかけたな。
済まなかった」
頭を下げる師匠に、
「やだなあ、
そんなキャラじゃないでしょ」
と軽口を叩いて部屋に上がる。
そして、
このあいだの事の顛末を詳しく聞いた。
どうやら師匠は、
『人面疽がある女』
という噂をどこかから聞きつけて、
なんとしても見たくなったらしく、
探し出してナンパしたのだそうだ。
一日でよくもまあ、
ホテルまで漕ぎつけたものだ。
「で、あったんですか。人面疽」
「いや、あれはただの火傷の跡だろう」
そしてもう用済みだから
女が行きたがっていたので、
予約しておいたレストランを
なんとかキャンセルして、
すぐにでも別れられないかと
姦計を巡らせていたところ、
女の彼氏に出くわして、
こんな目に遭ったということらしい。
※姦計(かんけい)
悪いはかりごと。悪だくみ。
「最悪だった」
最悪なのはあんたもだ、
と言いたかった。
あの事件は、
ある意味当然の天罰だろう。
俺はふと思い出して、
昨日気づいたばかりの発見を
師匠に披露した。
「『追跡』の作者のペンネーム、
カヰ=ロアナークでしたよね」
チラシの裏に、
ボールペンで書き付ける。
KAYI ROANAKU
「たぶん、こう書くんですよ。
ロアノーク島の怪をもじるにしても、
少し重い感じがしたのは、
使える文字が決まってたからなんです」
というのは、
と続けながら俺はその下に、
並べて別の名前を書く。
倉野木綾 KURANOKI AYA
「綾さんの名前です。
で、これを両方とも
アルファベット順に並び替えると・・・」
AAAIKKNORUY
AAAIKKNORUY
「ね、アナグラムでしょう。
これって」
師匠は頷く。
「さらに、綾さんの
今のペンネームも同様に」
茅野歩く KAYANO ARIKU
↓
AAAIKKNORUY
「どうです」
自慢げな俺に、
師匠はあまり感心した様子も無く、
「カヰ=ロアノークをやめたいから、
別のを考えてって言われて、
こねくり回して今の名前を作ったの、
僕だしね」
と言う。
予想されたことだった。
しかし、
この自分的に凄い発見に
水を差された気がして、
テンションが下がった。
そのせいだろうか、
少し意地悪なことを言いたくなった。
「でも、よくあの場面で
綾さんの名前を呟きましたね。
といっても覚えてないでしょうけど」
「違う女の名前を口にしてたら
刺されてたって?
そんなことで刺されるなら、
とっくに死んでるって」
ああ、
やっぱりこの人はダメだ。
「でも綾さんの予知能力で書かれた、
言うならば予言の書にあったんですよ。
その運命を変える、
奇跡的な一言だったわけじゃないですか」
「まあしょせん、小説だからなあ」
その小説のおかげで助けられたのは
誰だと言いそうになった。
「それにそれを読んでたの、
一人だけじゃないわけだし」
何気ない一言に、
煙に巻かれたような気分になる。
「どういうことですか」
詰め寄る俺を制しながら、
師匠は飄々と言った。
「あの最後のページを読んでた時、
僕も後ろで見てたんだよね。
背中で。
で、こりゃやっべーと思って、
やっぱ丸くおさまる名前をね」
狸寝入りかこの野郎。
俺はなんだか痛快な気持ちになって、
腹の底から笑った。
(終)
次の話・・・「貯水池 1/5」