海 1/2

小舟

 

大学2回生の夏。

 

俺は大学の先輩と海へ行った。

 

照りつける太陽とも、

水着の女性とも無縁の、

 

薄ら寒い夜の海へ。

 

俺は先輩の操る小型船の舳先で震えながら、

どうしてこんなことになったのか考えていた。

 

眼下にはゆらゆらと揺らめく海面だけがあり、

その深さの底は、うかがい知れない。

 

時々自分の顔がぐにゃぐにゃと歪み、

 

波の中にだれとも知れない人の横顔が

見えるような気がした。

 

遠い陸地の影は不気味なシルエットを横たえ、

 

時々かすかな灯台の光が緞帳のような雲を、

空の底に浮かび上がらせている。

 

「海の音を採りに行こう」

 

という先輩の誘いは、

抗いがたい力を秘めていた。

 

※抗いがたい(あらがいがたい)

逆らうことができない。

 

オカルト道の師匠でもある

その人のコレクションの中には、

 

怪しげなカセットテープがある。

 

聞かせてもらうと、

 

薄気味の悪い唸り声や、

すすり泣くような声、

 

どこの国の言葉とも知れない囁き声、

そんなものが延々と収録されていた。

 

聞き終わったあとで、

 

「あんまり聞くと寿命が縮むよ」

 

と言われてビビリあがり、

もう二度と聞くまいと思うが、

 

しばらくすると何故か

また聞きたくなるのだった。

 

うまく聞き取れないヒソヒソ声を、

 

「何と言っているのだろう」

 

という負の期待感で追ってしまう。

 

そんな様子を面白がり、師匠は

 

「これは海の音だよ」

 

と言って、

夜の海へ俺を誘ったのだった。

 

知り合いのボートを借りた師匠が、

 

慣れた調子でモーターを操って

海へ出た頃には、

 

すでに陽は落ちきっていた。

 

フェリーならいざ知らず、

 

こんな小さな船で

海上に出たことのなかった俺は、

 

初めから足が竦んでいた。

 

「操縦免許持ってるんですか?」

 

と問う俺に、

 

「登録長3メートル以下なら、

小型船舶操縦免許はいらない」

 

と嘯いて、

師匠は暗く波立つ海面を滑らせていった。

 

※嘯く(うそぶく)

とぼけて知らないふりをする。

 

どれくらい沖に出たのか、

師匠はふいにエンジンを止めて、

 

持参していたテープレコーダーの

録音ボタンを押した。

 

風は凪いでいた。

 

モーターの回転する音が止むと、

あたりは静かになる。

 

いや、

しばらくするとどこからともなく、

 

海の音とでもいうしかない

ザワザワした音が漂ってきた。

 

潮に流されるにまかせて、

ボートは波間に揺れている。

 

船首から顔を出して海中を覗き込んでいると、

 

底知れない黒い水の中に、

魚の腹と思しき白いものが、

 

時々煌いては消えていった。

 

師匠は黙ったまま、

水平線のあたりをじっと見ている。

 

横顔を盗み見ても、

何を考えているのかわからない。

 

微かな風の音が耳を撫でていき、

船底から鈍く響いてくるような海鳴りが、

 

どうしようもなく心細く、

孤独な気分にさせてくれる。

 

「採れてるんですかね」

 

と言うと、

 

口に指を当てて「シッ」という、

唇の動きで返された。

 

何か聞こえるような気もするが、

はっきりとはわからない。

 

そもそも、

 

海の上で一体何があのテープのような

囁きを発するのか。

 

俺はじっと耳を澄まして、

闇の中に腰をおろしていた。

 

どれくらい経ったのか、

 

ざあざあという生ぬるい潮風に、

顔を突き出したままぼーっとしていると、

 

ふいに人影のようなものが

目の前を横切った。

 

思わず目で追うと、

たしかに人影に見える。

 

漂流物とは思わなかった。

 

なぜならそれは、

子供の背丈ほども海面に出ていたからだ。

 

俺は固まったまま動けない。

 

ただゆらゆら揺れながら遠ざかっていく、

暗い人影から目を離せないでいた。

 

海の只中であり、

 

樹や、まして人間が立てるような

水深のはずがない。

 

視界は狭く、

ゆっくりと人影は闇の中へ消えていったが、

 

俺は震える声で

 

「あれはなんでしょうか」

 

と言った。

 

師匠は首を振り、

 

「海はわからないことだらけだ」

 

とだけ呟いた。

 

懐中電灯をつけたくなる衝動に駆られたが、

 

なにか余計なものを見てしまう気がして

出来なかった。

 

ガチンという音がして、

 

アナクロなテープレコーダーの録音ボタンが

元に戻った。

 

※アナクロ

時代に遅れたり逆行していたりするさま。

 

自動的に巻き戻しが始まり、

シャァーという音がやけに大きく響く。

 

師匠がテレコの方へ移動する気配があり、

わずかに船が揺れた。

 

※テレコ

あべこべ。互い違い。逆。

 

「聞いてみる?」

 

そんな声がした。

 

ここで?

 

俺は無理だ。

 

俺や師匠の部屋ならいい。

 

いや、あえていえば、

普通の心霊スポットくらいなら大丈夫だ。

 

しかしここは、

陸地から離れて波間に漂うここは、

 

海面より上も下も人間の領域ではないという

皮膚感覚があった。

 

『三界に家無し』

 

という単語がなぜか頭に浮かび、

頼るもののない心細さが猛烈に襲ってきた。

 

三界に家無し(仏事Q&A)

広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。

 

なにかが気まぐれに

この小さな船をひっくり返しても、

 

この世はそれを許すような、

そんな意味不明の悪寒がする。

 

そんなことを考えながら、

船のヘリを渾身の力で掴んだ。

 

そんな俺に構わず、

師匠はガチャリとボタンを押し込んだ。

 

(続く)海 2/2

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