海 2/2
思わず耳を塞ぐ。
バランスが崩れないよう
足を広げて踏ん張ったまま、
俺の世界からは音が消えて、
テレコの前に屈みこんだままの師匠が、
停止ボタンを押されたように動かなくなった。
俺はその姿から目を離せなかった。
胸が詰まるような潮の生臭さ。
板子一枚下は地獄。
ああ、
漁師にとってのあの世は海なんだな、
と思った。
波に合わせて揺れる師匠の肩口に、
人影のようなものが見えた。
再び海に立つ影が、
船のすぐ真横を横切ろうとしていた。
顔などは見えない。
どこが手で足でという輪郭すら、
はっきりわからない。
ただそれが人影である、
ということだけがわかるのだった。
師匠がそちらを向いたかと思うと、
いきなり何事か怒鳴りつけて
船から半身を乗り出した。
凄い剣幕だった。
船が一瞬傾いて、
反射的に俺は逆方向に体を傾ける。
人影は立ったまま、
闇の中へ消えていこうとしていた。
師匠は乗り出していた体を引っ込め、
船尾のモーターに取り付いた。
俺はバランスを崩し、
思わず耳を塞いでいた両手を
船の縁につく。
なんだあれ、なんだあれ。
師匠は上気した声で捲くし立て、
エンジンをかけようとしていた。
回頭して戻る気だ。
そう思った俺は、
その手にしがみついて、
「ダメです、帰りましょう」
と叫んだ。
師匠は俺を振りほどいて言った。
「あたりまえだ、つかまってろ」
すぐにエンジンの大きな音が響き、
船は急加速で動き始めた。
塩辛いしぶきが顔にかかる中で、
俺は眼鏡を乱暴に拭きながら、
微かに見える灯台の光を追いかける。
後ろを振り返る勇気はなかった。
後日、師匠が
「あの時の録音テープを聞かせてやる」
と言った。
結局、
俺はまだ聞いてなかったのだ。
喉元過ぎればというやつで、
ノコノコと師匠の部屋へ行った。
「ありえないのが採れてるから」
そんなことを言われては、
聞かざるを得ない。
テーブルの上にラジカセを置いて
再生ボタンを押すと、
くぐもったような波の音と風の音が
遠くから響いてくる。
耳を近づけて聞いていると、
その中に混じってなにか別の音が
入っているような気がした。
ボリュームを上げてみると、
確かに聞こえる。
ざあざあでもごうごうでもない、
なにか規則正しい音の繋がり。
それが延々と繰り返されている。
もっとボリュームを上げると、
音が割れ始めて逆に聞こえない。
上手く調整しながら
ひたすら耳を傾けていると、
それは二つの単語で
出来ていることがわかった。
人の声とも自然の音ともとれる、
なんとも言えない響き。
その単語を聞き取れた瞬間、
俺は思わず腰を浮かせて息をのんだ。
それは紛れもなく、
俺と師匠の名前だった。
(終)
次の話・・・「怖い夢」