ボットン便所の穴の中にあった世界
なにせ子供のことですから、「夢でも見ていたんだろう」というのが常識的な判断だと思うのですが・・・。
それでも映像としてはっきり記憶に残っている、『納得のいかない記憶』が一つだけあります。
当時、僕は両親の仕事の都合で、大阪府門真市の親戚の家に預けられていました。
1970年代前半の頃で、親戚の家のトイレは“汲み取り式”でした。
汲み取り式とは、便器の真ん中にぽっかり穴が開いていて、その真下に汚物が見えるタイプのトイレです。
子供心に、臭いやら怖いやらで凄く嫌だったのを覚えています。
トイレの下のもう一つの世界
これは、ある日のことです。
僕は外から遊んで帰って来て、まっすぐトイレに直行しました。
このことからでも、少なくともこれが起きたのは昼間だったのを分かっていただけると思います。
夜中に目が覚めてとか、朝起きてすぐとか、そんな半覚醒状態ではなかったことだけは確かです。
軋み音をあげる木の扉を開けて、トイレに入りました。
確か、便器にはプラスチック製のフタが付いていたと思います。
それを外そうとして、僕は異変に気づきました。
便器の内側が妙に明るいのです。
中を覗き込んでみると、思わず「あっ」と言いました。
なぜなら、便器の落し口の真下2メートルくらいのところに地面が見えるのです。
普通なら汚物しか見えない真っ暗な空間であるべき便器の内側は、昼間の陽光に溢れ、そして眼下にはアスファルト舗装されていない小石の散らばる地面が見えているのです。
「あれえ?」と思い、子供心に凄く悩みました。
「このままうんこしちゃっていいのかなあ?」と。
そして、しばらく呆然と便器の向こうの別世界を見つめていた時です。
ふと、真下の地面を人影が過ぎりました。
あれ?と思う間もなく、人影は戻って来ました。
おそらく、僕の視線に気づいたのだと思います。
その人は50代から60代くらいで、頭の横にちらほらと白いものが目立つ中年の男の人でした。
今でもはっきりとその姿を思い出せます。
頭の上にはヨレヨレの帽子に、首には汚れたタオルを巻き付け、顔は日に焼けて赤銅色に染まっていました。
おじさんは顔を上げ、ぱったり僕と視線が合いました。
そのまま対峙すること数秒、おじさんは怒鳴り声をあげました。
「坊主、そんなところで見てたら危ないやろうが!」
僕は後ろも振り返らず、慌ててトイレから逃げ出しました。
当時、親戚夫婦は、家の近くのうどん屋で働いていました。
僕はその店に逃げ込むと、おばさんを捕まえ、必死でこの異常事態を訴えました。
「あのねえ!知らないおじさんに危ないゆうて怒られてん!」
「そうか。危ないことしたらあかんで」
(ちゃうっちゅうねん、おばはん。あんたんちのトイレでやっちゅうねん!)
しかしガキの悲しさ、この事態をうまく言葉で表現することが出来ず、結局この件はそのままお蔵入りになりました。
その後、僕は半年程その家に居候していましたが、子供心に「あれは妖怪やない、人間やから怖うない」と思い、怖がることもなく元気にトイレで用を足していました。
怖くなってきたのは、それから10年も経ってからでしょうか。
一体、あのおじさんとトイレの下のもう一つの世界の正体は何だったのでしょうか・・・。
(終)