風呂嫌いには不思議なことが起きる風呂
これは、とある山小屋の風呂で不思議な体験をした話。
俺は子供の頃からの風呂嫌いだが、風呂好きにとって数日間の山行で風呂に入れないというのは、かなり不快な事に違いない。
山奥深くにあるその山小屋には『風呂』があった。
看板によれば、貴重な湯水を無駄にせぬよう、風呂だけの利用はお断りで、宿泊者だけが利用できる風呂だった。
俺は風呂などどうでもよかったが、同行者は「是が非でも風呂に入りたい」と言い出すので、仕方なくそこに泊まる事とした。
底なし風呂
小屋の親爺は無愛想ではあったが、「これでも食うか」と差し出してくれたのはスズメバチのハチの子。
ただ、ほとんど成虫の姿をしたものが混じり、人によってはグロテスクだろうが、野趣溢れる味わいがたまらず、旨かった。※野趣(やしゅ)とは、洗練されてはいないが素朴な感じのこと。
相変らず風呂に興味などないものの、同行者が上機嫌で風呂から上がるや、周囲を嗅ぎ回り、「臭い臭い」と言い出すに及んでは仕方ない。
とうとう観念して風呂に入る事とした。
風呂場は薄暗く、湯水は赤錆色で、ますます入りたくなくなった。
身体を洗い、湯船を覗き込むと、濁った湯のせいで底までは見えず、いよいよ嫌になった。
さっさと出たらよさそうなものだが、身体を洗ったせいで中途半端に身体が冷えてしまった。
「まあ、少し温まろう」と湯に足をつけた。
右足の爪先から足首、脛、膝から股へと進み、ついに湯船を完全に跨いだ。
浴槽が深く、まだ底に足がつかないが、深さ1メートルを越える風呂もある。
次に左足を入れ、両手で浴槽の淵に掴まり、身体を沈めていく。
腰、腹、胸、肩、まだ足がつかない。
相変らず、風呂の底は見えない。
どこまでいくかと好奇心が湧き、首から顎へ湯が上がってくるのも構わず、どんどん沈む。
ついに浴槽に掴まった手が伸びきったが、まだ足は底に届かない。
手の甲に強い冷気を感じ、身体を跳ね上げた。
風呂を出て、同行者と親爺が話をしている客間へ行った。
「風呂が嫌いだそうだね」
親爺が言い、俺の前で初めて笑った。
「もう一度、風呂場を覗いてみよう」と親爺が言い出し、その気になった。
同行者はキョトンとしている。
親爺と風呂場に行き、浴槽の蓋を取ると、湯が張ってある。
透明な湯だ。
浴槽の底も見える。
蓋を縦にして湯に沈めていくと、ごく普通の深さで底についた。
「よく分からんが、こんな風呂なんだ」
親爺が言い、笑った。
(終)