生き地獄の最中に財布を拾ってから
当時の俺は、以前から病気持ちだった妻に癌の転移が見つかり、度重なる入院と手術で気持ち的にも金銭的にも余裕がなかった。
そんな中、家庭事情に理解のあった上司も異動になってしまい、本当に追い詰められていた。
今振り返ると病んでいただけなのかもしれないが…。
これは、この半年の間で俺に起こった出来事になる。
看病で会社を休みがちな俺に、新たな上司は容赦がなかった。
名指しで罵倒され、業務上の会話すら拒否し、休職願いは握り潰された。
同僚は同情してくれはしたが、やはり上司には逆らえない。
帰れば帰ったで、請求書や保険会社への書類などで嫌なことしかない。
病院に行けば妻は弱気で、「自分が死んだらいい人を見つけてね」とか言い出す。
本当に生き地獄というのは底がないな、と思った。
そんなある日、俺は病院で財布を拾った。
ずっしりと重い長財布にはそこそこの大金が入っていて、余裕のない俺にはとんでもなく魅力的に見えた。
だが、非常に気になるものが挟んであった。
いわゆる『御札』というものだ。
病院という場所柄、お守りみたいなものかなと思う反面、御札なんて直接財布に入れるものなのか?と、おかしくも感じた。
そもそも御札は折り曲げてもいいものなのか、それが妙に気になったのを覚えている。
恥ずかしながら、財布は自宅に持ち帰ってしまった。
警察に届けようか、これだけあれば何日分のベッド使用料になるか、その時の俺は本気で悩んでいた。
翌日の仕事帰り、俺は駅のベンチで自問自答していた。
(俺、結構頑張ってるんだけどなぁ。妻を見捨てて毎日出社すれば、上司は挨拶を返してくれるのかなぁ)
確か、そんな最低なことを考えていたと思う。
俯いて帰らない理由を考えていると、「そうだな、お前は良くやってるよ」と、ベンチの前に立っていた人が俺に声をかけてきた。
(え?俺、声に出してたのか!)
ただ顔を上げると、そこには誰もいない。
自分で病んでるなと思いつつも、なんだか嬉しかった。
幻聴でも認めてもらったのは久しぶりだったから。
気分的なものなのか、最近は家に帰ると森の匂いのような香りがして、落ち込んでいた豆腐メンタルも癒される。
明日も頑張ろう、そう思えた。
不思議なことにその後も落ち込むたびに、時々幻聴は俺を励ましてくれた。
病んでいた俺は、そんなこともあるかもなと考えていたが、幻聴は徐々におかしな方向に変わっていった。
「もう十分頑張ったんじゃないか?」
自転車で信号待ちをしていた時、そんな幻聴が聞こえた。
え?と思った時にはもう「はい、おしまい」と、後ろから突き飛ばされた。
慌てて急ブレーキをかける。
直後、狂ったようにクラクションで威嚇する車。
呆然とする周囲の人たちと俺。
何がなんだかわからなくなり、その場は謝り倒して家へ逃げ帰った。
(俺、突き飛ばされたよな?…)
そんなことを考えているうちに寝落ちしてしまったが、夜中に猛烈な生臭さを感じて目が覚めた。
(何だ?この臭い?)
周囲を見回して、ふと財布と御札のことが頭に浮かんだ。
(あぁ、どうしようかな…。やっぱり届けないとまずいよなぁ)
そんなことを考えていたら、いつの間にか朝になっていた。
翌日、財布を警察に届けた。
案の定、財布は酷い臭いがしていたが、なぜか警官は平然としていて、中身を確認して調書のようなものを作成していく。
御札を何と書くのかなと見ていると、普通に『金○○万円、他札1枚』と記載されていた。
それ以来、気持ち悪い出来事や幻聴は収まったが、妻の病状は非常によくない。
「進行が妙に早いんですよねぇ」
医師からそう言われた。
職場も業績がよくなく、どうにも最後に聞こえた「はい、おしまい」という幻聴が気になっている。
俺の悩みはどうおしまいを迎えるのか、不安で仕方ない。
(終)