緑ヶ淵 2/2
アタリの感触はまだ無い。
深緑色をした水面は、円状の淵の中で、
緩やかに時計回りの渦を描いていた。
流れ着いた枝の切れ端や木の葉などの
小さなごみが中心に集まり、
ゆっくり回転している。
こうして見ると、ここが人を呑む淵と
呼ばれているなどとは到底思えなかった。
北の空には縦に厚い雲が一つ、
山を越えてゆっくりと
こちらに向かって来ていた。
ぼんやりと時間が過ぎる。
そよ風が吹き、草木が揺れ、魚は釣れず、
隣の彼は船を漕ぎ出していた。
何投目か。
しばらくして、あまりにもアタリが無いので
上げてみると、
針に刺さっている部分は残して、
餌の半分だけ食べられていた。
魚が居ないわけではないらしい。
私「・・・いてっ」
新しい餌に換えようとして、
針が人差し指に刺さった。
思ったよりも血が出ていたが、
面倒くさいのでそのまま餌を付けて、
再び竿を振る。
絆創膏も無いので、一度指を舐めて、
後は放っておく。
隣のくらげが眠たげな目で、
私の指をじっと見つめている。
「何?」と訊くと、
彼は餌の虫が入ったケースに目を落として、
「・・・何でも無い」と言った。
おかしな奴だなと思う。
その時だった。
竿が下に引っ張られた。
合わせる暇も無いほど、
それは一瞬の出来事だった。
もしも、とっさにくらげが服を
掴んでくれなかったら、
私は川に落ちていたかもしれない。
それほど突然で、強いアタリだった。
ギチ、と竿が悲鳴を上げる。
くらげも危ないと思ったのか、
私の服を掴んだ手を離そうとはしなかった。
本当に、巨大ナマズでもかかったのだろうか。
踏ん張りながら、
糸の先にいる生き物が何なのか、
私は考える。
これほど強い引きの川魚とは、
出会ったことが無い。
しかもそいつは、
前後左右に暴れることを一切せず、
ただ下へ、下へと引っ張っている。
まるで、私を川へ引き込もうと
するかのように。
これでは、釣りではなく綱引きだ。
その不自然な引きに、
一瞬背筋が震えた。
けれども、竿から手を離すことは、
しなかった。
この先に何が喰らいついているのか、
知りたいと思った。
しかし、結末はあっけなく訪れた。
糸が切れたのだ。
引き込まれないよう力を込めていた私は、
その瞬間、後ろに尻餅をつく。
糸の先にはウキだけが残り、
あとの仕掛けは全部、
持っていかれてしまっていた。
く「大丈夫?」
くらげの問いに、
私はひっくり返った体制のまま頷く。
ゆっくりと身体を起こして、
半ば呆然としながら
千切れた糸の先を見る。
最初は本当に、人喰いナマズでも
かかったのかと思った。
けれども私の直感は、
あれは魚ではないと告げていた。
じゃあ何なのかと問われると、
答えようが無いのだが。
く「・・・釣れなくて、良かったのかもね」
川の方を見ながら、
くらげがぽつりと呟いた。
再び覗き込むと、緑ヶ淵は
まるで何事も無かったかのように、
静かに佇んでいた。
それから、仕掛けを付け替え、
めげずに釣りを続けていた私だが、
二度と、あの強いアタリが
来ることはなかった。
代わりにうぐいが二匹釣れたので、
うろこと内臓を取って川原で焚き火を起こし、
塩焼きにして食べた。
内臓を取っている際、
横で見ていたくらげがぽつりと一言、
「・・・君って、やっぱり変わってるよね」
と呟いた。
「お前にだけは言われたくねぇ」
と返すと、
「そうかもね」と言って、
ほんの少し笑っていた。
緑ヶ淵で、また水難事故が起きたのは、
その次の年の夏のことだった。
街に住む男子高校生三名が、
度胸試しという名目で、
同時に大岩の上から飛び込んだらしい。
一人だけ撮影係として、岩の上に
残っていた者の証言によると、
三人が水に飛び込んだ後、
誰一人浮かんでくる者はおらず、
影も見えず、
水面には波一つ立たなかったという。
そのまま三人は帰らぬ人となった。
証言者が嘘をついているのではないか、
という話も上がったそうだが、
彼の持っていたビデオカメラには、
三人が岩の上から飛び込む瞬間と、
飛び込んだ後の静かな水面の様子が、
映っていたらしい。
『緑ヶ淵が、また人を呑んだ』
とは言うものの、それが一体、
具体的にどういうことなのか、
説明出来る人間はいない。
非科学的だと言って、
頑なに否定する者も居るそうだが、
それでも緑ヶ淵は確かに存在し、
今日も静かに佇んでいる。
(終)
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