みずがみさま 2/4

「もう十何年も前の話だから心配ない。

それに、どこの山だって死亡事故の

一つや二つ起きてるもんだ。

一々ビクビクしてたら何も出来んだろ」

 

「それにしても、食事中にする

話じゃなかろーが」

 

それでも美味そうにビールを飲む父に、

母は「この酔っぱらいめ」と悪態をつく。

 

そんな夫婦のやり取りを見ながら、

私の口の悪さは母譲りだなと改めて思う。

 

「ああそう、思い出した・・・。

死体を見た専門家も、

こいつは熊じゃないって言ってたな」

 

一本目の缶ビールを飲み干した父が、

そのまま顎を上げ空を見上げた状態で、

どこか独り言のようにそう言った。

 

「腹の傷辺りの内臓が、

すっかり溶けてるとかなんとか」

 

「やめんと刺すぞ」

 

母が父に菜箸を突きつけ、

この話は終わった。

 

昼食後は、日が暮れるまで、

それぞれ好き勝手なことをして過ごした。

 

母は読書をしたり、

傍に居たくらげを捕まえて

話の相手をさせていた。

 

酔っぱらいは、

わざわざ家から持って来た

ハンモックを手ごろな木に吊るして、

昼寝をしていた。

 

私はというと、

もっぱら釣りをしていた。

 

餌はその辺の岩の下に居た小さな虫で、

この湖で何が釣れるのかも知らなかったが、

 

湖の景観は眺めていて飽きなかったし、

ついでに何か釣れればいいな、

くらいの心持ちだった。

 

小さな折りたたみ椅子に座り、

ぼんやりしていると、

 

ようやく母に解放されたらしい

くらげがやって来て、

私の隣に腰を下ろした。

 

しばらく二人とも無言で湖を眺めた。

 

どこかで、ピィ、という

鳥の鳴き声と一緒に、

木々の擦れ合う音がして、

 

小さなこげ茶色の影が数羽、

私たちの頭の上を西から東へと

横切っていった。

 

「さっきの親父の話さ、

あれ本当だと思うか」

 

鳥の影が見えなくなった後、

私は何となく尋ねてみた。

 

欠伸の最中だったらしいくらげは、

両手首で涙をぬぐいながら、

そのまま「んー」と伸びをした。

 

「僕は当事者でも何でもないし」

 

「まあ、そうだよな」

 

そして、くらげは地面に生えていた草を

数本引き抜くと、湖に向かって投げた。

 

「・・・あのさ。これ、随分昔に

おばあちゃんに聞いた話なんだけど」

 

くらげが言った。

 

「この辺の山には、

神さまが住んでるって」

 

「神さま?」

 

「そう。みずがみさま、って

いうんだけどね」

 

くらげは湖を見つめながらそう言った。

 

みずがみさま。

 

その名前は私に、

今自分が釣り糸を垂らしている湖の名前を、

否応なく思い出させた。

 

「その、みずがみさまが

どうかしたのか?それとも事件は、

そいつのせいだって言うのかよ」

 

くらげは首を横に振った。

 

「かもしれないねって話。でも、

この湖の傍で見つかったんでしょ?」

 

確かに男の死体は、

この水神湖周辺で見つかったそうだが、

 

だからといって、湖の神さまが犯人は、

突拍子過ぎるのではないか。

 

そんな私の考えを知らないくらげは、

淡々と続ける。

 

「ふつう、神さまが見える人なんて、

滅多にいないし。

見えない何かに危害を加えられたり、

なんてことはあり得ないんだけど」

 

そして、くらげは右腕を前に伸ばすと、

シャツの裾を少しめくって見せた。

 

白くて細い腕の中に、

赤い斑点が数ヶ所浮き出ている。

 

「見えない人には居ないも同然だけど。

もしも『それ』が見える人なら、

刺されたり噛まれたり、

殺されることもあるんだよ」

 

それは、彼が自宅の風呂に出た、

くらげに刺されたという痕だった。

 

最初に見たのは小学校の頃の

体育の授業だったが、

 

それから数年経っても消えないで、

未だ彼の身体に残っている。

 

ファントム・ペイン――幻肢痛。

 

そんな、どこかで聞いたような単語が

頭に浮かぶ。

 

しかしあれは、すでに失った、

あるはずの無い手足の痛みを感じる、

というものだったはず。

 

この場合、幻傷と言った方が

いいのかもしれない。

 

「・・・でもなあ。最近の神さまは、

人を襲って内臓食うのかよ」

 

私が言うと、くらげは前を見たまま

「どうだろうね」と、少し首を傾げた。

 

「神さまなんて、

善いとか悪いとか関係なしに、

人が崇める対象のことだし。

 

もしかしたら、

生贄だと思ったんじゃないかな。

 

僕らの街も、

昔は水害が多かったそうだから」

 

さらりと言って、

くらげは再び欠伸をした。

 

それから後ろを振り向き、

父が寝ているハンモックを、

どことなく羨ましそうに見た。

 

その後、私は夕暮れまで粘ったが、

結局一匹も釣れなかった。

 

(続く)みずがみさま 3/4へ

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