転校生と杉の木 2/4
四月が終わりを迎え、五月。
端午の節句がすぐそこまで近づいていた。
その日も前日は雨だった。
学校が終わり、一人での帰り道。
道路には、水溜りという置き土産が
いくつも残っていた。
わざと水溜りを蹴飛ばしながら歩く。
靴下まで水に濡れて、
一歩歩くごとにガッポガッポと、
音が鳴るのが楽しい。
母には不注意で溝に落ちた、
とでも言い訳するつもりだった。
そうやって、私は保育園の
横の道までやって来た。
歩くのを止めて立ち止まる。
何か聞こえたのだろうか。
虫の知らせだろうか。
理由は忘れてしまった。
とにかく私は立ち止まった。
保育園では、数人の子供が
遊んでいるようだった。
はしゃぐ声がする。
園内を見ると、
ちょうど私の視界を遮る様に、
あの杉の木があった。
ふと、あの白い靴のことを
思い出した私は、
なんとなく、木の幹を辿って、
視線を空へと向けてみた。
頭上に、あの白い靴が浮かんでいた。
瞬きすら忘れて、
私はそれを見つめていた。
誰かが白い靴を履いている。
その時見えたのは、
靴だけではなかった。
前は見えていなかった人の足首。
靴を履いている人間の足だ。
足はスネのところで途切れていて、
それ以上は見えない。
色や輪郭は、
まるで霧がかかったように、
ぼんやりとしている。
しかし、白い運動靴を履いた足が二本、
確かに空中に浮かんでいた。
誰かが私の背後を通り過ぎる。
はっとして横を見ると、
黒いランドセルが向こうの角を
曲がろうとしていた。
見覚えのある背中。
「ちょっと待てよ!」
私は、とっさにその背中を
呼び止めていた。
彼は立ち止まり、
ゆっくりとこちらを向いた。
その顔は無表情で、
相変わらず何を考えているかわからない。
転校して来て一カ月。
その頃、彼はすでに、
教室の置き物扱いだった。
休み時間に教室に居ないのは変わらず。
最初の方こそ、
寡黙な転校生を面白がっていた周りも、
慣れてくるにつれ、
次第に相手をする者もいなくなっていた。
彼は黙って私の方を見ていた。
言葉で説明出来なかった私は、
無言で杉の木の下に浮かぶ、
誰かの白い靴を指差した。
彼が私の指差した方向を見る。
長い沈黙があった。
「・・・見えるの?」
杉の木を見上げたまま、
彼が口を開いた。
そんなことはないはずなのだが、
私はその時、初めて彼の声を
聞いたような気がした。
「白い靴と、足首」
私は見えたままを答える。
どうやら、彼にも同じものが
見えているようだった。
しらばっくれる気はないらしい。
「そう。でも、それ以上は
見ない方がいいよ」
そして、彼はゆっくりとこちらを見た。
「あの人、君の方、見てるから」
それだけ言い残し、
彼は背を向けて歩き出した。
再び呼び止めることも出来ず、
私はただその背を見送っていた。
その姿が曲がり角の先に
消えてしまってから、
私は杉の木を見上げる。
白い靴と人間の足首は、
忽然と消えて見えなくなっていた。
一体全体、何だというのだ。
その日も家に帰って親に報告したが、
やはり母も父も、
まともに取り合ってはくれなかった。
見間違いではない。
自分の目に見えたものが何なのか。
私は知りたいと思った。
彼が何か知っているに違いない。
その考えは確信に近かった。
私は二度、白い靴を見た。
一度目、二度目も、
私の傍には彼の姿がある。
しかも、最初にあの杉の木を
見上げていたのは、彼なのだ。
無関係とは思えない。
次の日、
学校での給食の時間が終わり、昼休み。
私は誰よりも早く教室を出て、
廊下にて待機していた。
いつものように彼が教室から出て来る。
私はその肩を捕まえた。
「ちょっと話をしないか」
彼は無言のまま私を見た。
相変わらず表情は乏しい。
迷惑と思っているのだろうか。
いずれにせよ、
中々返答しようとしない彼に、
私は自分の中で一番優しげな
笑顔を作ってみせた。
「いいよ、って言うまで
付きまとうから」
彼は俯き、小さく息を吐いた。
「・・・いいよ」
人気の少ない中庭に場所を移す。
二人で階段を下り、
上履きから靴に履き替え、外に出た。
睡蓮の葉が浮かぶ丸い池の縁に腰掛け、
単刀直入に前置きも何も入れず、
私は切り出した。
「あの白い靴と足は、何なんだよ」
「分からないよ」
対する彼の答えもシンプルだった。
そうして彼は、
「僕は、あの人のことを知らないから」
と続けた。
『あの人』。先日もだ。
彼は確かにそう言った。
『それ以上は、見ない方がいい』とも。
きっと足だけでは無いのだ。
その上がある。
そして、彼にはそれが見えている。
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