田舎(中編) 5/5

田舎

 

「車に戻れ」

 

という師匠の声に我に返ると、

逃げ込むように助手席に飛び乗った。

 

シートベルトをする暇もなく、

車は急発進する。

 

そして次のカーブを曲がるや否や、

ユキオの原付が目の前に現れた。

 

遠ざかっていく前と、

なにも変わらない様子で山道を走り、

 

白いヘルメットがゴトゴトと揺れている。

 

道もいつの間にか元の幅に戻り、

 

ガードレールも所々へこみながらも

ちゃんと両側にある。

 

俺は言葉を失って、

首をゆるゆると振る。

 

まるで、さっきまで緑色の迷宮に

閉じ込められていた間、

 

時間がまったく経過していなかったかのように、

すべてはすっきりと繋がっていた。

 

今まで心霊体験の類を

数知れず味わってきた俺にも、

 

まるで白昼夢のような出来事に

呆然とせざるをえなかった。

 

「やってくれたな」

 

師匠が深く息を吐いて、

背もたれに体を預けた。

 

「今のが人間の仕業とは」

 

言葉の端から、

ゆらゆらと青白い炎が立つような声だった。

 

京介さんの方を見ると、

 

さっきの蛇に打ち込まれていた釘を

手にしている。

 

「持っていろ」

 

そう師匠が言った途端、

京介さんは窓からそれを投げ捨てた。

 

「おい」

 

怒るというより、

溜息をつくような調子で師匠が咎める。

 

京介さんは、

 

「余計な物が余計な物を招くんだよ」

 

と言って横を向いた。

 

師匠は恨めしそうに、

バックミラー越しに睨んでいる。

 

前を行くユキオがハンドルから片手を離し、

山側を指さした。

 

もうすぐ目的地だ、

ということらしい。

 

まもなく俺たちは、

 

山の中にぽつんと立つ

一軒家に辿り着いた。

 

伯父の家によく似た造りの日本家屋だ。

 

広い庭に鶏を飼っている。

 

ユキオがヘルメットを脱ぎながら、

「せんせー」と家に向かって声をかけ、

 

俺は後ろから近づいてその耳元に囁いた。

 

「なあ、さっき俺たちの車を

見失わなかったか」

 

「いや」

 

ユキオは怪訝そうに首を振る。

 

そうだろうとは思った。

 

おそらくあれは、

俺たちの霊感に反応したのだろう。

 

ユキオには何事もない山道に

過ぎなかったはずだ。

 

だが、

俺たちが狙われたのは明らかだった。

 

なにか警告じみた悪意を感じたからだ。

 

それは、

京介さんが足から血を流した、

 

あの四つ辻で感じたものと

同質のものだった。

 

俺は師匠の顔を見たが、

首を横に振るだけだった。

 

成り行きに任せよう、

と言うように。

 

「電話しといた例の人たちです」

 

ユキオが玄関の中に体を入れながら、

奥に向かって言葉をかける。

 

奥から応えがあって、

俺たちは家の中へ招き入れられた。

 

畳敷きの客間に通され、

 

その整然とした室内の雰囲気から、

正座して待った。

 

廊下が軋む音が聞こえ、

白髪の男性が襖の向こうから姿を現した。

 

ユキオの小学校の先生だったというので、

もう少し若いイメージだったが、

 

70に届こうという歳に見えた。

 

先生は客間の入り口に立ったままで

室内を睥睨し、

 

※睥睨(へいげい)

にらみつけて威圧すること。

 

胡坐をかいているユキオを怒鳴った。

 

「おんしゃあ、

どこのものを連れてきたがじゃ」

 

「え」と言ってユキオは目を剥いた。

 

俺は驚いて仲間たちの顔を見る。

 

先生は険しい表情をしたまま踵を返すと、

足音も乱暴にその場から去ってしまった。

 

それを慌ててユキオが追いかける。

 

残された俺たちは呆然とするしかなかった。

 

しかし師匠は、

妙に嬉しそうな顔をしてこう言う。

 

「あの爺さん、

 

どこのモノを連れてきたのか、

と言ったね。

 

そのモノはシャと書く『者』じゃなくて、

モノノケの『物』だぜ。

 

あるいは、

オニと書く鬼(モノ)か・・・」

 

師匠はくすぐったそうに、

身を僅かによじる。

 

京介さんがその様子を冷たい目で見ている。

 

やがて、

もう一度襖が開いて、

 

先生の奥さんと思しきお婆さんが、

静々と俺たちの前にお茶を並べてくれた。

 

「あの」

 

口を開きかけた時、

 

ユキオを伴って再び先生が

眉間にシワを寄せたままで現れた。

 

入れ違いに、

お婆さんが襖の向こうに消える。

 

座布団をスッと引き寄せながら、

先生は俺たちの前に座った。

 

ユキオも頭を掻きながら、

その横に控える。

 

「で、」

 

先生は深いシワの奥から厳しく光る眼光を、

こちらに向けて口を開いた。

 

「先に言うちょくが、

 

わしは本来おまんのようなもんを

祓う役目がある」

 

その目は師匠を見据えている。

 

「その上で聞きたいこと

というがはなんぞ」

 

師匠は怯んだ様子もなく、

あっさりと口を開いた。

 

「いざなぎ流の勉強を

少しさせてもらいました。

 

密教、陰陽道、修験道、

そして呪禁道。

 

それらが渾然一体となっているような

印象を受けましたが、

 

陰陽道の影響が

かなり強く出ているようです。

 

明治3年の天社神道禁止令と、

その後の弾圧から土御門宗家はもちろん、

 

有象無象の民間陰陽師も、

息の根を止められていったはずですが、

 

この地では、

 

どうしてこんな現実的な形で

残っているのでしょう」

 

先生は表情を崩さずに、

「知らん」とだけ答えた。

 

「まあいいでしょう。

法律の不知ってやつですか。

 

そういえば、

 

『むささび・もま事件』ってのも、

舞台はこのあたりじゃなかったかな。

 

・・・話がそれました。

 

ともかく、

いざなぎ流はこの平成の時代に、

 

未だに因縁調伏だとか病人祈祷だとかを

真剣に行っているばかりか、

 

『式』を打つこともあるそうですね」

 

「式王子のことか。

・・・生半可に言葉ばかり」

 

「まあ、

付け焼刃なのは認めますが。

 

僕が知りたいのは、

実は犬神筋についてなのです」

 

「わしらには関係ない」

 

先生は淡々と返す。

 

「まあ聞いてください。

 

ご存知でしょうが、

 

犬神筋というのは四国に広く分布する

伝承です」

 

師匠は正座したまま語った。

 

曰く、

 

犬神を祓うことのできる

業の伝わる場所には、

 

それゆえに犬神が社会の深層に

潜む余地があるのだと。

 

まして、

 

そんな技法が日々の生活の中に

織り込まれているこの地では、

 

犬神もまた日常のすぐ隣に存在している。

 

「ここに来る途中、

頭を釘で貫かれた蛇を見ました。

 

明らかに呪いをかけるための

道具立てです。

 

もし仮に、

誰かの使っている犬神の、

 

その胴体を埋めてある秘密の場所を

見つけられてしまったとしたら、

 

その誰かは一体どうするのでしょうか」

 

師匠が言葉を途切れさせたその瞬間、

 

みんなの手元に置いてある湯飲みが、

一斉にカタカタと鳴り始めた。

 

地震かと思い、

とっさに電灯の紐を見る。

 

紐はわずかに揺れていて、

 

外から光の射す障子の白い紙も

微かに振動していた。

 

こぼれたお茶の雫を京介さんが指で掬い、

じっと見つめている。

 

俺は、どうやらただの微弱な

地震らしいと思ってなお、

 

得体の知れない胸騒ぎがした。

 

揺れが治まってから、

先生はゆっくりと口を開く。

 

「いね」

 

「え?」と問い返す師匠に、

「帰れ、という方言です」と耳打ちする。

 

「それは、この地を去る他ない

ということですか」

 

師匠は急に立ち上がり、

障子に近づくと骨に手をかける。

 

サーッと木が擦れる心地よい音とともに、

眩しい光が飛び込んできた。

 

縁側の向こうでは、

 

庭に造られた垣根の中で、

鶏が地面をついばんでいる。

 

その様子を見ながら、

師匠がボソっと言った。

 

「全然騒ぎませんでしたね」

 

さっきの地震のことを

言っているのだと気づくまで、

 

少しかかった。

 

確かに鶏の騒ぐ音はしなかった。

 

「なんとかなりませんか」

 

師匠の言葉に、

先生は首を横に振るだけだった。

 

ユキオはよくわからないままに、

オロオロしているように見えた。

 

「どうも僕は、ここでは

やたら嫌われてるみたいだなあ。

 

フィールドワークのために、

 

郷土史研究家だとか民俗学の研究者が

訪ねてくることだってあるでしょうに。

 

そんな部外者もみんな追い返すんですか」

 

「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、

礫で追い払うがが常じゃ」

 

「魔物と来たよ」

 

師匠は声になるかならぬかという

小声で足元にこぼし、

 

また顔を上げた。

 

「魔物と言えば、

いざなぎ流では、

 

目に見えない魔物を儀式に

引っ張り出すために、

 

『幣』という紙細工を作るそうですね。

 

魔群というんですか。

 

川ミサキだとか、

水神めんたつだとか、

 

蛇おんたつだとか。

 

神様を模したものも多いようですが。

 

それぞれに決まった形の幣があって、

 

切り方や折り方は師匠から弟子へ、

御幣集という形で伝えられると聞きました。

 

ある資料で、

何点か挿絵を見たことがあります。

 

ヤツラオだとかクツラオだとか、

おどろおどろしい怪物も、

 

幣になってしまえば、

 

随分可愛らしくなってしまう

と思いました。

 

・・・ところで」

 

師匠は障子を閉め、

一瞬室内が暗くなる。

 

「犬神の幣がないのはどうしてですか」

 

誰の気配とも知れない、

ハッとした空気が漂う。

 

俺は固唾を飲んで師匠を見ている。

 

「どの資料を見ても

出てこないんですよ。

 

犬神を象った幣が。

 

たまたまかも知れないし、

あるいは見落としかも知れない。

 

でもどこか引っかかるんです。

 

犬神は深く土地に食い込んだ魔物で、

四国の各地に隠然と広がっている。

 

いざなぎ流によって祓われる対象として、

どうしてもっと目立っていないんでしょうか」

 

先生は師匠の視線を逸らすように天を仰ぎ、

深く溜息をついた。

 

そしてそれきり目を閉じて、

なにも言葉を発しようとしなかった。

 

「わかりました。いにますよ」

 

いにますって、

使い方合ってるよね。

 

師匠は俺にそう言うと、

 

先生に向かって頭を下げ、

止める間もなく部屋から出て行ってしまった。

 

残された俺たちも

いたたまれない雰囲気になって、

 

腰を上げざるを得なかった。

 

出されたお茶に誰ひとり手もつけないままに、

退散する羽目になるとは思わなかった。

 

と、俺の隣で京介さんが、

目の前の湯飲みに手を伸ばし、

 

一気に飲み干した。

 

帰れと言われた去り際に

そんなことをするなんて、

 

少し京介さんのイメージとはズレがあり、

奇妙な行動に思えた。

 

すると立ち上がりざま、

俺にだけ聞こえる声でこう囁くのだ。

 

「貸してるタリスマンは持って来たか」

 

かぶりを振ると、

 

独り言のように「気をつけろよ」と言って、

部屋から出て行った。

 

※かぶりを振る

頭を左右に振って否定や不承知の意を表す。

 

俺はなにか予感のようなものに襲われて、

自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。

 

冷たかった。

 

思わず手を離す。

 

出された時は、

確かに湯気が出ていた。

 

間違いない。

 

あれからほんの僅かしか

時間は経っていないというのに、

 

一瞬のうちに熱を奪われたかのように、

湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。

 

まるで、

 

汲み上げたばかりの

井戸水のように。

 

(終)

次の話・・・「雨音

原作者ウニさんのページ(pixiv)

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2 Responses to “田舎(中編) 5/5”

  1. にゃんころ より:

    この話ってpixivでも後編上がってないんでしたっけ

  2. pixivに少しだけ加筆はありましたが、ネット上では未完のままです。書籍で完結されています。

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