怪物 「結」-上巻 2/5
廊下や教室に人影もまばらになった頃、
私はようやく蛍光ペンを置いた。
結局、高野志穂の他に、
木曜日以前から夢を覚えていた人は
いなかった。
高野志穂の家の近所に住んでいる子はいたが、
その子は怖い夢を見ていることさえ
気づいていなかった。
まあ、いい。
出来る限りの精度は上げた。
地図に落とされたボールペンの丸を、
もう一度見つめる。
急ごう。
地図を鞄に仕舞い、
私は校舎を後にする。
早足で歩き、
一度家に帰って自転車を手に入れる。
サドルに跨りながら空を見上げると、
まだ陽は落ちていなかった。
さあ、行こう。
そう呟いてペダルを漕ぎ出す。
途中、
思いついて公衆電話に寄ろうとした。
しかし、
ちょうど通り道にあった公衆電話は、
例の『お化けの電話』だ。
なんとなく嫌だったので、
少し遠回りして別の公衆電話へ向かう。
ほどなくして電話ボックスにたどり着き、
自転車を脇に止めて、
中に入って受話器を上げる。
テレホンカードを入れて、
覚えている番号をプッシュする。
コール音が数回鳴ってから相手が出た。
居ないだろうと思って、
留守番電話に入れるつもりだったのに。
仕方がないので、
忙しいから今日は会えないということを伝える。
案の定、ケンカになった。
毎週金曜日に会う約束をしていたのに、
これで2週連続私からドタキャンしてしまった。
だからと言って、
別に浮気をしているワケではない。
止むに止まれぬ事情があるのだから。
逆に私へのあてつけのように、
今夜は女を買うなどと口にしたことの方が、
余程許せない。
「死ね」
と言って電話を切った。
電話ボックスを出た時は、
頭に血が上り冷静さを欠いていたが、
しばらく自転車を漕いでいると、
次第に我に返ってくる。
いけない。
方向が違う。
自転車のカゴから、
地図を取り出して確認する。
この辺りはまだ青のエリアだ。
ハンドルを切って方向を修正した。
立ち漕ぎで先を急ぐ。
景色がヒュンヒュンと過ぎ去っていく。
その中へ溶けていくように、
涙がひと筋だけ流れて消えていった。
ホントに、
私は何をやっているのだろう。
駄目だ。
このところ、
心と身体のバランスを崩している。
ちょっとしたことで落ち込んだり、
悩んだり。
今もこんな訳の分からないことで、
いつの間にか必死になっている。
一体、私はどうしてしまったのか。
『あなた、ちょっと変わったね』
と昨日の夜、先輩は言った。
高校に入ってから、
私は変わり始めてしまったらしい。
何故なのだろう。
剣道部を続けていた方が
良かったかも知れない。
そう思いながら自転車を漕ぎ続ける。
気がつくと、
私は赤のエリアに入っていた。
そしてその最深部までは、
目と鼻の先だった。
ただのありふれた住宅街だ。
今は何の不吉な印象も受けない。
なのに緊張してしまうのは、
頭で考えてしまうからなのだろう。
三差路の角を曲がった時、
私は心臓が止まるほど驚いた。
コンクリート塀に、
電信柱が無造作に立てかけられている。
元あったと思しき場所には穴が開いていて、
そこからまるで力任せに
引き抜かれたかのような痕跡が、
地面のひび割れとなって現れていた。
電線の角度が変わって、
片方はピンと張り、
もう片方はたわんでブラブラと揺れている。
まるで子どもがおもちゃの箱庭で
遊んでいるような、
現実離れした光景だった。
目に見えない巨大な手が
空から降ってくるような錯覚を覚えて、
私は思わず身体を仰け反らせる。
聞き集めた怪現象の中に、
こんなものがあったはずだ。
でもこれは多分、別件だろう。
全く誰も、
この異変に気づいた様子はない。
誰かにここでこうしているのを見られたら、
と思うと煩わしくなり、
すぐに自転車を発進させた。
高野志穂の家は、
そこから5分と掛からなかった。
わりと新しい住宅が並んでいる一角の、
青い屋根が印象的なこじんまりとした家だった。
家の前に自転車を止めて、
私は腕時計を見る。
彼女はバレー部の練習に行くと言っていたので、
まだ部活から帰っていない時間のはずだ。
深呼吸をしてから呼び鈴を押す。
インターフォンから『はあい』という声がして、
暫し待つと玄関のドアが開いた。
高野志穂に良く似た小柄な女性が
顔を覗かせる。
母親らしい。
「あら。どなた」
そう言いながらドアを開け放ち、
こちらに歩み寄ってくる。
内側にチェーンは・・・ない。
目線の動きを悟られないように
素早く確認した後、
私は出来る限りのよそいきの声を出した。
「志穂さんはいらっしゃいますか」
「あら、お友だち?
珍しいわねぇ。
でもゴメンなさい。
まだ帰ってないのよ。
・・・どうしましょう。
ウチに上がって待ってくださる?
散らかってるけど」
「いえ、いいんです。
ちょっと近く来たので寄っただけですから。
また来ます」
そう言って私は頭を下げ、
申し訳なさそうな母親に
ヘタクソな笑顔を向けて自転車に跨った。
「さようなら」
家を辞する挨拶として適当だったのか、
分からない。
ああいう時は何と言うのだろう。
お休みなさい、かな。
でも少し時間帯が早いか。
そんなことを考えながら角を曲がるまで、
背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。
あの家は、違う。
チェーンのこともそうだが、
エキドナの気配はない。
根拠のない自信だが、
エキドナの母親であれば、
たぶん一度顔を見れば分かるはずだ。
さあ、これからどうしよう。
地図をもう一度取り出して眺めると、
ボールペンで丸をつけた部分は
一見小さく見えるが、
現実にその場に立ってみると、
かなり広いことに気づく。
住宅街であり、
そこに建っている家だけでも
二桁ではきかない。
もう少し範囲を絞れないだろうかと考えて
頭をフル回転させるが、
いかんせんあまり性能がよくない。
やむを得ず、
勘でぶつかってみることにした。
それっぽい家の呼び鈴を鳴らして回った。
なにがそれっぽいのか、
基準が自分でもよく分からないが。
表札に出ている子どもの名前を
使おうかと考えたが、
本人が居た場合、
話がややこしくなると考え、
「志穂さんはいますか?」
と言って訪ねてみた。
すると、
大抵の家では母親が出て来て、
「志穂さんって、
ひょっとして、高野さんの所の
お嬢さんじゃないかしら」
と言いながら、
高野家の場所を口頭で教えてくれる。
そして私は、
「家を間違えてしまって済みません」
と言いながら立ち去る。
なんの問題もない。
スムーズ過ぎて、
なんの引っ掛かりもないことが
逆に問題だった。
ドアにチェーンのある家も中にはあったが、
エキドナがいるような気配は
全く感じなかった。
応対してくれる主婦も、
ごくありふれた普通のおばさんばかりだ。
もっと突っ込んで、
家の中でポルターガイスト現象が
起こっていないかとか、
家庭内で子どもと何か問題が起きていないか、
などと聞いた方が良いのだろうかと考えたが、
どうしてもそれは出来そうになかった。
クラスメートならともかく、
初対面の人間にそんな変なことを
聞いて回るだけの図太い神経を、
私は持ち合わせていないのだった。
(続く)怪物 「結」-上巻 3/5
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