怪物 「転」 4/5
学校に着いた。
校門の内側で、
人だかりが出来ている。
近寄ると、
校内の地面に20センチほどの
深さの凹んだ跡があった。
その周囲1メートル四方に、
まるで巨大なハンマーで力任せに
叩いたようなヒビが入っている。
昨日まではなかった。
夜の間にこうなっていたらしい。
教師たちに追い払われ、
みんなヒソヒソと口を寄せながら、
昇降口に吸い込まれていく。
不思議だが、
これもただのノイズのようなものだ。
実体ではない。
捉われてはいけない。
教室に入ると、
いつにも増して妙にざわついた雰囲気が
辺りを覆っている。
朝礼で担任の教師が生徒に向かって、
「浮わついているようだから、
気を引き締めるように」
という、
まったく具体性のない説教を、
自信なさげに口にした。
先生自身、
なにをどう注意すればいいのか
分からないのだろう。
1時間目の授業は生物だった。
内容に全然集中できない。
『今日は金曜日か』
休日よりも平日の方が
情報収集には向いている。
今日一日でどれだけ情報を
集められるかが勝負だ。
1時間目が終わり、
休み時間に入る。
さっそく今朝の校門の側の、
凹んだ地面についての噂話が始まる中を、
強引に割り込むようにして、
私は次々と質問をしていった。
「怖い夢を見なかったか」と。
誰も戸惑いながら、
顔を強張らせて答える。
多くは「見てない」という答えだったが、
ぽつりぽつりと「見た」という
返事も混ざっていた。
普段クラスメートとは
距離を置いている私が、
ズカズカとプライベートに
踏み込んで来るのを
不快そうにする連中から、
それでもなんとか
重要な部分を聞き出す。
「見たよ。
お母さんを殺しちゃう夢」
そんな答えをした子が複数いた。
やっぱりだ。
みんな同じ夢を見ている。
細部まで同じ。
ドアのチェーンを外して、
迎え入れた母親に、
刃物で切りつける夢だ。
私は昨日今日と繰り返された夢の中で、
現実と異なる場面が二度も続いたことが
引っ掛かっていた。
私の家の玄関のドアには、
チェーンなんかないのに。
そして、
背伸びをしてそのチェーンに
手を伸ばしたこと。
これは明らかにおかしい。
170センチを超える私が、
背伸びしなくてはいけない
なんてことはないはずだ。
子どもの頃に植えつけられた記憶でもない。
ずっと、
あの家に住んでいるのだから。
だから、
あの背伸びをしてチェーンを外す
感覚は私の中ではなく、
どこか外側からやって来たものなのだ。
そう。例えば、
母親を憎み殺したがっている
子どもの意識が、
あるいはそのために見ている
母親殺しの夢が、
その子の小さな頭蓋骨から漏れ出て、
夜の闇を彷徨い、侵食し、融解し、
私たちの夢の中へと混線するように
入り込んで来るのだ。
それは夜毎に、
私たちの深層意識へ
吐き気のするような暗い感情を、
ひたひたひたひたと刷り込んでいく。
私は教室の真ん中で、
肘を抱えて動けなくなった。
怖い。
誰か、この震えを止めてくれ。
クラスメートたちの視線が、
容赦なく突き刺さる。
変なヤツだろう。
私もそう思う。
しばらく固まったまま、
呼吸を整える。
恐怖心が霧のように散っていくのを待つ。
よし。まだ頑張れる。
そして歩き出す。
その日の昼休み。
私は自分の席にノートを広げ、
これまでに集めた情報を整理していた。
まず、
聞いて回った『怖い夢』について。
分かったことは、
みんな、かなり以前から
『怖い夢を見ている』という、
漠然とした記憶があったこと。
そして昨日、
つまり木曜日の朝。
私のように、
初めてその夢の内容を覚えていた
という子が何人かいる。
その夢は母親を殺す夢。
覚えている鮮明さに差はあっても、
ほぼ同じ内容の夢であることは間違いない。
つまり、
現実の玄関のドアにチェーンが
ある子もない子も一様に、
夢の中では玄関にチェーンがあり、
それを外して母親を迎え入れている。
母親の顔は、
それぞれの母親のものだ。
けれど、
間違いなく自分の母親の顔だったか
と問われると、
みんな口ごもる。
それは、“母親”という
イメージそのものを知覚し、
朝起きてから
それを思い出そうとした時に、
自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、
記憶の中で再構築が行われている、
ということなのかも知れない。
私も、夢の中でドアを開けて入って来る
母親の顔に、
いや、その表情に、
違和感を感じている。
本物そっくりだけれど、
輪郭の定まらない仮面を
着けているような違和感。
『違和感』
とノートに書こうとして、
漢字が分からず直しているうちに
グシャグシャにしてしまい、
目玉をつけて毛虫にした。
みんな母親を殺す夢を見たことを、
周囲に話していない。
確かに、他人に話しても
気分のいいものではないだろう。
だから、
お互いが同じ夢を見ていることを、
まだ知らない。
どうする?
注意を喚起するべきか。
それはすぐに却下する。
意味がない。
せめてこれから何が起こるのか、
あるいは何も起こらないのか、
分かってからだ。
もう一つ重要なことがある。
『怖い夢』を見ていたという
漠然とした認識があった子もいれば、
そんな認識がない子もいる。
そして認識があった子の中でも、
昨日の木曜日から夢を覚えている子もいれば、
今朝初めて覚えていたという子もいるし、
そしてまだ、
『なんか怖い夢を見たけど
忘れちゃった』
という子もいるのだ。
この個人差が、
あるいは霊感と呼ばれるものの
差なのかも知れない。
けれど、何故か単純に、
そう思えないのだ。
その“霊感”が影響しているのも
間違いないだろう。
でも、ここにはなにか、
別の要素があるように思えてならない。
私は鞄から、
折り畳んで突っ込んでおいた
市内の地図を取り出す。
そして、
一昨日から起こっている
様々な怪現象の出現ポイントを、
地図上にオレンジ色のマーカーで
落としていく。
昨日一日にも、
色々と起こっていたらしい。
これまでの休み時間に、
恥も外聞もなく掻き集めた情報だけでも、
かなりの数の異変が確認できる。
風もない緑道公園の上空を、
大きな毛布がふわふわと
ゆっくり飛んでいたかと思うと、
急に落下して川に落ちたという事件。
資格試験のための予備校で、
講師のマイクが原因不明の
唸り声を拾ってしまい、
授業にならなかったという事件。
住宅街の電信柱が
誰も気づかないうちに引き抜かれ、
その場でコンクリート塀に
立てかけられていたという事件。
こんな奇妙な出来事が、
頻発しているというのだ。
中にはただの思い違いや
誰かのイタズラが、
混じっているかも知れない。
でも、ひとつひとつに取材をして
確認していく余裕はない。
私はとにかく、
そうした情報があった場所を
地図に書き入れ続けた。
「出来た」
顔をノートから離し、
俯瞰して見る。
※俯瞰(ふかん)
高い所から見下ろし眺めること。
点在するオレンジ色。
一見なんの法則もないように見えるそれを、
慎重に指で追う。
一番右端、
つまり東の端にある点に
シャーペンの芯を立て、
その左斜め上にある点まで線を引く。
そのままスムーズに伸ばすと、
次の点がある。
紙を滑るシャーペンの音。
そうして地図上の一番外側の
オレンジ色を結んでいくと、
そこには少し歪な格好の『円』が現れた。
他のオレンジ色は、
すべてその内側にある。
想像が現実になっていくことにゾクゾクする。
次に私は、
家から持って来た同級生の住所録を、
鞄から取り出す。
まさかと思いながらも、
昨日立てた仮説に役立つかも知れないと
用意したのだが、
さっそく使う場面が来た。
初めて開く住所録を片手に、
今日聞いた『怖い夢』を見ていた
という子の家がある辺りを、
ひとつひとつ蛍光ペンで塗っていく。
木曜日に見た子。
金曜日に見た子。
そして、
まだ内容を思い出せない子。
それぞれ赤、青、緑の
3つの色を使って塗り分ける。
それらの色とオレンジ色との関連性は
見つけられない。
接近しているのもあれば、
全く離れているものもある。
オレンジの円の外側に
位置しているものさえある。
けれど、赤、青、緑には、
明らかに相関性があった。
赤が最も円の中心に近く、
青、緑の順に、
そこから離れていっている。
早い時期に夢を思い出せた人ほど、
円の中心に近い場所に住んでいるのだ。
(続く)怪物 「転」 5/5