黒い手 2/4
解散になった時、
箱を抱えて店を出ようとした僕に、
さっきの三つ編み女がすり寄ってきた。
「ねえ、やめたほうがいいよ。
それほんとやばいよ」
なんだ、この女。
霊感少女気取りなのか。
引き気味の僕の耳元に、
強引に耳を寄せて囁く。
「わたし、人に指差されたら
わかるんだよね。
たとえ見えてない後ろからでも。
そんな感覚たまにない?
わたしの場合、
嫌な人に指差されたら、
それだけ嫌な感じがする。
そんでさっき箱が出てきた時、
半端なくゾワゾワ来た。
こんな感じ、
今までもなかった」
そういえば、
縦長の箱が置かれた時、
その片方の端が
この女の方を向いていた。
箱の中で黒い手が指を差している、
というのだろうか。
そう思っていると、
女の妙に冷たい息が、
耳に流れ込んできた。
「それがね、
指差されてるのは
箱からじゃないのよ。
背中から、誰かに」
そこまで言うと、
三つ編み女は息を詰まらせて、
逃げるように去っていた。
店の中で一人残された僕は、
箱を抱えたまま棒立ちになっていた。
コト、という乾いた音がして、
箱の中身の位置がずれた。
僕は生唾を飲み込んだ。
なにこの空気。
もしかして、
あとで後悔したりする?
ふと視線を感じると、
店の外からガラス越しに、
黒のワンピース姿の音響が
こっちを見ていた。
アパートの部屋に帰り着き、
箱をあらためて見ていると、
気味の悪い感覚に襲われる。
黒い手の噂はつい最近
始まったはずなのに、
この箱は古い。
古すぎる。
煤けたような木の箱で、
裏に銘が彫ってあってもおかしくない
佇まいである。
この中に本当に黒い手が
入っているのだろうか。
だいたい噂には、
箱に入ってるなんて話はなかった。
音響と名乗るあの少女に
担がれたような気もする。
でも可愛かったなぁ。
と、思わず顔がにやける。
たぶん、今日はオカルト好きが
集まったのではなくて、
少なくとも男どもは音響目当てで
参加したのではないか、
という勘繰りをしてしまう。
そうでなければ、
開けろコールくらい起きるだろう。
黒い手が見たくて集まったはずならば。
僕は箱の蓋に手をかけた。
その瞬間に、
さまざまな思いやら感情やらが交錯する。
まあ、
今でなくてもいいんじゃない。
1週間あるんだし。
僕はつまり逃げたのだった。
そして箱を本棚の上に置くと、
読みかけの漫画を開いた。
それから2日間は何事もなく過ぎた。
3日目、
師匠と心霊スポットに行って、
またゲンナリするような怖い目にあって
帰って来た時、
部屋の扉を開けると、
テーブルの上に箱が乗っていた。
これは反則だ。
部屋は安全地帯。
このルールを守ってもらわないと、
心霊スポット巡りなんてできない。
ドキドキしながら、
昨日、本棚からテーブルの上に
箱を移したかどうか思い出そうとする。
無意識にやったならともかく、
そんな記憶はない。
平静を装いながら、
僕は箱を本棚の上に戻した。
深く考えない方がいいような気がした。
4日目の夜。
ちょっと熱っぽくて早々に
布団に入って寝ていると、
不思議な感覚に襲われた。
極大のイメージと極小のイメージが
交互にやってくるような、
凄く遠くて凄く近いような、
それでいて、
主体と客体がなんなのか
わからないような。
子供の頃に熱が出るたび感じていた、
あの奇妙な感覚だった。
そんなトリップ中に、
顔の一部がひんやりする感じがして
現実に引き戻された。
目を開けて天井を見ながら
右の頬を撫でてみる。
そこだけアイスクリームを当てられたように、
温度が低い気がした。
冷え性だが、
頬が冷えるというのは
あまり経験がない。
痒いような気がして、
しきりにそこを撫でていると、
その温度の低い部分が、
ある特徴的な形をしていることに気づいた。
いびつな五角形に、
棒状のものが5本。
僕は布団を跳ね飛ばして起き上がった。
キョロキョロと周囲を見回し、
箱の位置を確認する。
箱の位置を確認するのに
どうして見回さなければならないのか、
その時はおかしいと思わなかった。
本棚の上にあった。
置いた時のままの状態で。
けれど、
僕の頬に触ったのは手だった。
それもひどく冷たい手の平だった。
思わず箱の蓋に手をかける。
そして、
そのままの姿勢で固まった。
昔から『開けてはいけない』と言われたものを、
開けてしまう子供ではなかった。
触らぬ神に祟りなしとは、
至言だと思う。
※至言(しげん)
事物の本質を適切に言い当てている言葉。
でも、
そんな殻を破りたくて師匠の後ろを
ついていってるのじゃないか。
そうだ。
それに箱を開けたらダメだとか、
そんなことは噂にはなかった。
音響が言っているだけじゃないか。
そんなことを考えていると、
ある言葉が脳裏に浮かんだ。
僕はそれを思い出した途端に、
躊躇なく箱の蓋を取り払った。
中にはガサガサした紙があり、
それに包まれるように黒い手が1本、
横たわっている。
マネキンの手だった。
ハハハハと、
思わず笑いがこみ上げてくる。
こんなものを有難がっていたなんて。
手に取ってかざしてみる。
なんの変哲もない、
黒いマネキンの手だ。
左手で、
それも指の爪が長めに作られている
ところを見ると、
女性用だ。
案の定だった。
あの時、
音響は確かに言った。
「結婚指輪でも買ってやれば・・・」
つまり、
左手で、女性なのだった。
『開けるな』と言っておきながら、
音響自身は箱を開けて中を見ている。
そう確信したから僕も開けられた。
なんだこのインチキは。
(続く)黒い手 3/4