とある裕福な家庭が抱えている苦しみ
昔に読んだ小説なので、内容が少し違っているかもしれないが・・・。
主人公の家政婦は、短期契約で大企業の社長夫妻の家に住み込みで働く事になった。
その家の一人娘のカナエさん(仮名)の結婚式が近々控えており、嫁入り準備で人手が足りないという理由からである。
奉公先の社長夫妻は、金持ちにありがちな高慢なタイプではなく、むしろ礼儀正しく誠実な方達で願ってもない雇い主なのだが、令嬢のカナエさんの様子はどこかおかしい。
もうすぐ自身の結婚式というのに、まるで他人事のように一日中自室でボーっとしているだけで、母親から新居へ送る荷物の整理や新婚旅行の準備について叱られても、心ここにあらずと言った感じである。
しかし家政婦は、雇い主のプライバシーに関わるまいと無理やり納得して、日々の仕事に没頭していた。
他人とは思えなくて・・・
さて、ついに結婚式の前日の事である。
居間で一家が最後の家族団らんを楽しんでいると、不意に玄関の呼び鈴が鳴った。
こんな遅くに誰だろうと家政婦が玄関に出ると、奥様と同年代くらいの中年女性がプレゼントの包みを抱えて立っていた。
結婚祝いに来た親族なのだろうかと、確認を取ろうと思ったその時である。
血相を変えた奥様が後ろに立っており、訪ねて来た中年女性に「お引取り下さい!」とヒステリックに叫んだのだ。
いつも上品な奥様の慌てように家政婦が呆然としていると、カナエさんもいつの間にか後ろに立っている。
すると中年女性はカナエさんの方に駆け寄ると、「カナエちゃん結婚おめでとうね。呼んでくれなくて残念だわ。そうそうこれね、アヤコ(仮名)の使っていた手袋よ。あなたにピッタリだと思うわ。ぜひ使ってね」と捲くし立て、プレゼントをカナエさんに押し付けた。
「帰ってください!警察呼びますよ!」と奥様が声を荒げると、中年女性は笑顔のまま家を後にした。
興奮冷めやらない様子の奥様は、カナエさんが貰ったプレゼントを「捨ててしまいなさい!そんなもの!」と取り上げようとしたが、カナエさんは貰った手袋を手にはめて、「うふふ、アヤコちゃんの手袋~、アヤコちゃんの手の皮をつけてるみたい~」と、気持ち悪い事を言いながらさっさと部屋に引っ込んでしまう。
そして結婚式が終了してひと段落ついた奥様がくつろいでいると、新婚旅行中の花婿さんから国際電話がかかる。
どうもカナエさんの様子がおかしい。
自分がどこにいるか分からないようで、飛行機の中で暴れだしたそうだ。
今は鎮静剤を飲ませて宿泊先のホテルで休ませているが、明日には連れ帰るからこれからの事を話し合いたいと言う。
受話器を置いた後、旦那様は「全部あいつらのせいだ!」と声を荒げ、奥様は床に崩れ落ちて泣き出した。
やがて、誰かに吐き出さずにはいられないと、夫妻は事の真相を語り始めた。
(以下、夫妻の話)
一年前、カナエは女子大の卒業旅行にと、親友のアヤコさん達と一緒に湖畔のペンションへ泊まりに行った。
彼女達が湖でボート遊びを楽しんでいると、突然バランスを崩したボートは転覆した。
溺れたカナエを助けようとしたアヤコさんは、結果的に命を落としてしまう。
アヤコさんの家は熱心なクリスチャンであった。
アヤコさんの葬式の日、大切な娘さんの命を犠牲にしてしまったと恐縮する夫妻。
しかし、アヤコさんの両親は泣きながら、「アヤコは人一倍正義感の強い子でした。大事な親友の命を救えてあの子も天国で満足しているでしょう」と言った。
そして、アヤコさんの母はこう続ける。
「あのう、これからカナエちゃんをアヤコの変わりと思ってもよろしいかしら。あの子が救った子ですもの。他人とは思えなくて」
それからは、事あるごとにアヤコさんの母はカナエの元を訪れるようになった。
ある時は遺品を携えて、ある時は「あの子の誕生日だから」とプレゼントを持って。
(夫妻の話ここまで)
事件後すっかり塞ぎ込むようになったカナエさんは、この頃から決定的におかしくなってしまったのだそうだ。
『義を見てせざるは勇無きあり』という言葉があるが、アヤコさんはその通り、良心に従い親友を助けようと自らの命を投げ出した。
※義を見てせざるは勇無きあり(ことわざ)
人として行うべき正義と知りながらそれをしないことは、勇気が無いのと同じことである。
しかし、それは結果的にアヤコさんの両親の心に深い悲しみを生み、カナエさん一家を巻き込んで不幸にしてしまったのである。
アヤコさんの母親がカナエさんを狂気に追い詰める為にそのような行動をしたのか、それとも本当に亡くなった娘の姿をカナエさんに重ね合わそうとしたのか、それは分からない。
ただ言える事は、アヤコさんは亡くなったが、夫妻も一人娘のカナエさんを亡くしたのと同じ気持ちということだった。
(終)