人間をついばむカラスはすぐ殺せ 2/2
その絵の物語は、右の壁から奥の壁へ、そして左の壁を経由して天井で終末が描かれていた。
墨で描かれた真っ黒な鳥。
その鳥が作る漆黒の巣。
その巣から産まれる真っ黒な卵。
その卵が割れると、そこから血しぶきをあげる真っ黒な・・・人間?
周りに描かれた『普通の』人間を、その黒い人間が蹂躙(じゅうりん)している。
俗な言い方をすると、ぶっ殺している。
そして最後は、その黒い人間は小さな無数の蜘蛛に囲まれ、大きく両腕を広げていた。
信じる信じないとかではなく、それ以前の問題だった。
ただ、その絵が正常な人間が描いたものではないことぐらい、美術2の俺にも分かっただけだ。
「何この絵、気持ち悪りぃ」
「神社の入り口の石碑な。あれ、流暢な文体で読めたもんじゃないが、もう高校生だからなんとなく分かるだろ。『口伝は駄目だという口伝』。そう書いてある」
「だから絵で伝えようって?」
「そう。お前はがっかりするかも知れないが、じいちゃんも、とめきっつぁんも、本当のことは知らないんだよ。だけど、昔の人は厳しかったからな。お前よりも父ちゃんが、父ちゃんよりもじいちゃんが、カラスを怖がるのはしょうがないんだ」
つまるところこの絵は、先人たちが描いた化け物への防衛策。
「父ちゃん・・・この絵。伝えたいことは大体分かるけど、でも分かんないよ」
「そうだろうな。俺もそうだった」
「教えてよ」
「お前がこの絵を見て思うことが全てなんだよ。口伝はダメなんだ。お前なりに解釈して、部落の飲み会で自分の考えを語り合って、怖がって、それを繰り返すうちに、『人間をついばむカラス』は殺さないといけないと、みんな思うようになるんだ。だけどな・・・、これだけは口で伝えることになってるんだ」
そう言って、父は人差し指を下に向ける。
つられて下に懐中電灯を向けると、大きな太い字で『人間』と書いてあった。
「ニンゲン?」
「違う。これは『ジンカン』と読む。これから殺すんだ」
正確には『人間をついばむ』ではない。
カラスは、髪の毛を狙っているのだ。
人間の髪の毛だけで黒の巣を作るために。
そう思った。
その日の夕方には、部落の家という家の玄関先に蜘蛛の巣が張られていた。
ミニトマトを育てる時なんかに立てる支柱を2本地面に刺して、その間に巣食わせていた。
「変な宗教団体みたいだ」
理由を知らなければ誰だってそう思うだろう。
しかしまぁ、よくみんな上手い具合に蜘蛛の巣を張ったものだった。
「必死になればな。こうしないと死ぬかも知れないって思ったら、意外と出来るもんだ」
「あの絵の通りなら、ジンカンを殺すのは蜘蛛ってこと?」
「・・・そうだな。みんなそう思ってる」
「あの絵を描いた人、頭悪いね。文章で残せば良かったじゃないか」
「その通りだな。だけどきっと、頭悪いから文章では残せなかったんだよ」
父と俺は一際大きな女郎蜘蛛を捕まえて、巣食わせた。
祖父はというと、他の家の蜘蛛の巣作りを手伝っていた。
「うちの蜘蛛より大きいのは、とめきっつぁんのとこぐらいだね」
父は小さく「そうだな」と言うと、さっさと風呂に入ってしまった。
いつもより無口なのは仕方ないだろう。
こんな日なんだから。
その日の夕飯は夜9時近くになってしまったが、その時間になっても祖父は帰って来なかった。
正直、俺は『ジンカン』なんて信じきれていなかったから、「じいさんまだ頑張ってるのかね」と半ば呆れていた。
「大変だ!やられた!とめきっつぁんがやられた!ジンカンだ!」
真っ青な顔をして、白いシャツに鮮血を付けた祖父が勢い良く茶の間に駆け込んで来た。
固まる母と俺を尻目に、父はゆっくりと箸を置き、頭をポリポリと掻いて、祖父にまず落ち着くように促した。
「親父、どういうことだ。とめきっつぁんはどうなってる?」
「死んだ!完全に死んだ!これを見ろ、とめきっつぁんの血だ!まずいぞ、蜘蛛じゃない!ジンカンは蜘蛛じゃ殺せないんだ!」
「落ち着けって!とめきっつぁんの家族はどうした?あそこは小さな孫もいたはずだろう」
父は努めて冷静だった。
パニックに陥っている祖父の断片的な話を紡ぎながら、事実確認を急いだ。
「家族はみんな、公民館に逃げて無事だった・・・。だから公民館で見回りから帰ってきた俺に、とめきっつぁんの様子を見てきてくれって!とめっきっつぁんはやられてた!」
「やられてたって、どんな状態だったんだ?」
「穴だらけだった!血が噴き出していた!」
祖父がその時に思い出していた光景はどんなものだったろう。
祖父はその場で吐いた。
カン、カン、カン。
消防の鐘が聞こえた。
部落の住民全員に知らせる、緊急事態の鐘の音。
「公民館に行くんだ。今日はみんなで集まるんだ。守るんだ」
そう言ったのは祖父だったか、父だったか、母だったか、それとも俺だったか。
それを覚えていないのは、その直後の衝撃が大きすぎたからだ。
「父ちゃん、なんか臭わない?」
「・・・ああ。なんか臭いな」
「これ、最近嗅いだことのある臭い・・・これって・・・」
最近どころじゃない。
昨日嗅いだ。
死んだ人間の腐った、くっさいあの臭いだ。
「じいちゃん、死んだ人の臭いがする!」
「俺じゃない・・・。この臭い、外からするぞ」
父は勢い良く立ち上がり、物置へと走った。
母は相変わらず茫然自失で、身支度をするでもなく座ったままだった。
ドン!と玄関の戸を叩く音が響く。
何事かと思い、祖父も俺も戸の方を見て固まる。
一瞬の静寂。
「・・・ジンカン?」
今まで黙っていた母がそう言った瞬間だった。
ドンドンドンドン!!
正常な人間なら、こんな戸の叩き方はしないだろう。
ドン、ドン、バリン!!
戸が壊れた。
俺たちが今いる茶の間は、玄関から廊下と襖を挟んですぐだったから、それが目の前に現れるのもすぐだった。
ジンカンは存在した。
「うわあああああああ!!化け物だ!ジンカンだ!」
人間の形をした、人外の化け物。
その身体は絵の通りに真っ黒だった。
その腐って爛(ただ)れた身体には、人間でいう左腕が無かったが、その代わりに右腕の動きが異常だった。
その動きをどう言い表せばいいのか分からない。
多分、どんな単語を組み合わせても表現できない。
こんな化け物を蜘蛛で殺せると本当に思っていたのか。
ジンカンを見て本当のパニックに陥ったのは母だった。
「はわあああああ」と叫びながら両手を胸の前で震わせ、もはや立つことすら出来なかった。
ジンカンはその顔を人間では考えられない角度にぐるりと回転させ、明らかに祖父に狙いを定めた。
祖父は動けないでいた。
「どけ!離れろ!」
その時だ。
父がバケツ一杯にガソリンを汲んできて、ジンカンに浴びせたのだ。
ジンカンは微動だにせずその触手を祖父に伸ばしたが、父が火を点けると、まるで人間のように悶えながら廊下に転がった。
「これが幽霊とかじゃないならこれで死なないとおかしい、殺せるなら、死なないとおかしい」
息を切らしながら、父は呪文のように呟いていた。
転がるジンカンは叫ぶこともなく、空気の抜けていく風船のように萎(しぼ)んでいき、炎と共に消えた。
「何だったんだ・・・」
祖父はやっぱり年寄りだからか、腰が抜けて動けなかった。
俺は公民館に行くよう、事の顛末のメッセンジャーの役目を頼まれた。
父と祖父は多少なり残った火の完全消火をし、その時の母はというと、まるで使い物にならなかった。
初めは信じられないでいた部落の住民も、俺の家の有り様と、とめきっつぁんの遺体を見たら何も言えなくなった。
翌朝の事だ。
繰り返しになるが、いくら田舎の高校生とはいえ、朝5時に起きるほど健康的ではないのだが、父から叩き起こされた。
「疲れているだろうが、悪いな。これからドスコイ神社に行く」
「昨日の事で?」
昨日の朝と全く同じやり取り。
しかし、神社への道すがら、父は教えてくれた。
「あの絵な・・・俺は前から思っていたんだ。『蜘蛛がジンカンを殺す』んじゃなくて、『蜘蛛を目印にジンカンが襲う』んだと。もちろん他の人にも言ったさ。じいちゃんにも、とめきっつぁにもな。でも誰も同意してくれない。なんで俺以外そう思わないのか不思議だった。あの絵の描かれ方だと、まるで蜘蛛はジンカンの手下って感じだろう」
「そう言われるとそうとしか見えないかも知れないけどさ」
そうして父と俺は、改めて神社に描かれた絵を見る。
「父ちゃん、俺、今思ったんだけどさ・・・」
「何だ?」
「この話、天井から始まるんでないの?」
この絵は右の壁から読むと、カラスが産んだ卵から血しぶきをあげるジンカンが孵(かえ)り、人間を殺しまくって最後には蜘蛛にやっつけられる話になる。
だが、天井から読むとどうだ。
蜘蛛を従えるジンカンは人間を殺して、最後にはカラスの産む黒い卵で血しぶきをあげて死ぬ。
そんな話になる。
「本当は逆だったんだ・・・」
父はポツリと言った。
「『人間をついばむカラス』がジンカンを産むんじゃない。そのカラスの卵がジンカンを殺す卵だったんだ」
本当にそうなのか。
本当は違うのか。
それは今でも分からない。
あれ以来、ジンカンどころか、人間をついばむカラスも見つかっていないから。
だけど、たぶん本当だ。
なぜなら、あの時のジンカンはもう現れないから。
死んだのだから。
実は、この話はこれで終わっていなくて後日談もある。
最後に、部落の子供に『人間をついばむカラスはすぐ殺せ』と教えることはなくなった。
むしろ、カラスは放っておくように教える大人が増えている。
部落で毎年行われていた、『カラス追い祭り』なる祭りもなくなった。
そして今の部落の長は、ジンカンに殺されたとめきっつぁんの息子。
彼もまた、みんなから親しみを込めて『とめきっつぁん』と呼ばれている。