怪物 「結」-下巻 4/5

夜道

 

「でも、みんな同じものを見たんだろ。

その・・・くだんみたいなやつを」

 

「ちょっと待て。

あんただけ牛を見たのかよ」

 

キャップ女が突っかかる。

 

「ち、違う。

 

じゃあ、なんて言うんだよ、

ああいう人間の顔したやつを」

 

「そう言えば、

人面犬ってのが昔いたねぇ」

 

と、おばさんが少しずれたことを言う。

 

「くだんなら、予言をするんだろ。

戦争とか、疫病とかを」

 

キャップ女が両手を広げてみせる。

 

「言ってたじゃないか」

 

「かわいそうに、が予言か?

一体誰がかわいそうだっていうんだ」

 

その言葉に、

 

言った本人も含め、

全員が緊張するのが分かった。

 

ざわざわと葉が揺れる。

 

そうだ。

 

かわいそうなのは、誰だ?

 

脳裏に何度も夢で見た光景が圧縮されて、

早回しのように再生される。

 

この場所に来た理由を忘れるところだった。

 

とっさに空を見る。

 

月は雲に隠れることもなく輝いている。

 

月の位置。

 

そして一番背の高いビルの位置。

 

近い。と思う。

 

「月は、どっちからどっちへ動く?」

 

と、眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。

 

「太陽と同じだろ。

あっちからこっちだ」

 

と、キャップ女が指でアーチを作る。

 

「あ、でも、1時間に何度動くんだっけ?

忘れたな。あんた現役だろ?」

 

いきなり振られて動揺したが、

 

「たぶん15度」

 

と答える。

 

「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」

 

そう言いながら、

 

眼鏡の男が指で輪っかを作って

月を覗き込む。

 

「15度って、どんくらいだ」

 

輪っかを目に当てたまま呟くが、

誰も返事をしなかった。

 

「でもたぶん、近いわね」

 

と、おばさんが真剣な表情で言う。

 

「手分けして、虱潰しに探すか」

 

※虱潰し(しらみつぶし)

物事を片端から一つ一つ落ちのないように処理すること。

 

眼鏡の男の提案に、

賛同の声は上がらなかった。

 

やがて、

 

「こんな時間に一般人を

叩き起こして回ったら、

 

警察を呼ばれるな」

 

と、自己解決したように溜息をつく。

 

暫し、気分的にも空間的にも

停滞の時間が訪れた。

 

キャップ女とおばさんが、

小声でなにかを話し合っている。

 

眼鏡の男はぶつぶつと

独りごとを言っていたが、

 

木の幹に隠れるように寄り添っていた

青い眼の少女に向かって、

 

「おまえもなんか言えよ」

 

と、投げ掛けた。

 

少女は身構えたようにじっとしたまま、

瞼をぱちぱちとしている。

 

私はさっきのフラッシュバックに

引っ掛かるものを感じて、

 

もう一度、

夢の光景を思い出そうとする。

 

それは些細なことのようで、

また同時に、

 

とても重要な意味を持っている

ような気がする。

 

どこだ?

 

揺らめく記憶の海に顔を漬ける。

 

刃物の感触?

 

違う。

 

ロックが外れる音。

チェーンを外すための背伸び。

叩かれるドア。

 

違う。

 

まだ、その前だ。

 

足音。

 

その足音を、

母親のものだと知っている。

 

足音は下から登ってくる・・・

 

ハッと顔を上げた。

 

確かに足音は下の方から聞こえて来た。

 

何故それをもっと深く考えなかったのか。

 

2階以上だ。

 

2階以上の場所に玄関があるということは、

集合住宅。

 

マンションか、アパートか。

 

私は夜の中へ駆け出した。

 

他の人たちの驚いた顔を背中に残して。

 

考えろ。

 

フラットな場所の足音ではない。

 

登ってくる音だった。

 

マンションなら、

 

部屋の中から通路の端の階段を登ってくる

足音が聞こえるだろうか。

 

端部屋なら可能性はある。

 

でも例えば、

 

階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されている

ようなアパートならもっと・・・

 

私の視線の先に、

それは現れた。

 

比較的古い家が並んでいる一角に、

 

木造の小さな2階建てのアパートが

ひっそりと佇んでいる。

 

1階に3部屋、

2階にも3部屋。

 

玄関側が道に面している。

 

ささやかな手すりの向こうに、

ドアが6つ平面に並んで見える。

 

1階から2階へ上がる階段は、

 

1階の右端のドアの前から、

2階の左端のドアの前へ伸びている。

 

赤い錆が浮いた、

安っぽい鉄製の階段だ。

 

登ればカンカンと、

さぞ騒々しい音を立てることだろう。

 

立ち尽くす私に、

ようやく他の人たちが追いついて来た。

 

「なんなのよ」

「待て、そうか、足音か」

「このアパートがそうなのか」

「・・・・・・」

 

アパートの敷地に入り込み、

 

階段の側に点いた

黄色い電灯の明かりを頼りに、

 

駐輪場の側の郵便受けを覗き込む。

 

上下に3つずつ並んだ銀色の箱には、

101から203の数字が殴り書きされている。

 

名前は書かれていない。

 

そして101と201と203の箱には、

 

チラシの類が溢れんばかりに

詰め込まれている。

 

綺麗に片付けられた番号の部屋には、

 

現在まともに住んでいる入居者が

いるということだろう。

 

2階で綺麗なのは202だけだ。

 

どうりで、母親の足音だと

分かったはずだ。

 

階段を登ってくるものは、

他にいないのだろう。

 

同じようにその意味を理解した

らしい人たちの、

 

息を呑む気配が伝わって来る。

 

階段を見上げながらそちらに歩こうとすると、

いきなり猫の鳴き声が響いた。

 

見ると、

 

青い眼の少女の前から、

1匹の汚らしい猫が逃げて行くところだった。

 

敷地の隅に設置された、

ゴミ置き場らしきスペースだ。

 

黒いビニール袋やダンボールが

重ねられている。

 

青い眼の少女は、

 

猫の去ったゴミ置き場から

目を逸らさずにじっとしていた。

 

その異様な気配に気づいた私も、

そちらに足を向ける。

 

じっとりと汗が滲み始める。

 

さっき走ったせいばかりではない。

 

暗い予感に、

空間がグニャグニャと歪む。

 

私の鼻は、

微かな臭気を感知していた。

 

肉のニオイ。

 

腐っていくニオイ。

 

ゴミ置き場が、

近くなったり遠ざかったりする。

 

雑草が足に絡まって、

前に進まない。

 

どこからともなく荒い息遣い。

 

そしてその中に混じって、

 

かわいそうに、かわいそうに、

という声が聞こえる。

 

幻聴だ。

 

雑草も丈が短い。

 

ゴミ置き場も動いたりなんかしない。

 

理性が障害をひとつひとつと

追い払っていく。

 

けれど、

臭気だけは依然としてあった。

 

ひときわ中身の詰まった黒いゴミ袋が、

スペースの真ん中に捨てられている。

 

2重、いや、3重にでもされているのか、

やけにごわごわしている。

 

誰もが息を殺してそれを見つめている。

 

肩が触れないギリギリの距離で、

皆が並んでいる。

 

胸に杭が断続的に打ち込まれている

ような感じ。

 

手をそこに当てる。

 

見たくない。

 

でも目を逸らせない。

 

眼鏡の男が腰の引けたまま、

ゴミ袋の上部に出来た破れ目に指をかける。

 

さっきの猫の仕業だろうか。

 

ガサガサという音とともに、

中身が月の光の下に現れる。

 

土気色の肌。

 

目を閉じたまま口を半開きにした

幼い女の子の顔が、

 

ゴミ袋の破れ目から覗いている。

 

生きている人間の顔ではなかった。

 

それを見た瞬間、

全身の血が沸騰した。

 

足が土を蹴り、

無意識に階段の方へ駆け出す。

 

けれど次の瞬間、

 

前に回り込んだ何者かの手に

肩を押さえられる。

 

遠慮のない力だった。

 

目の前に顔が現れる。

 

目深に被ったキャップの下の

険しい表情。

 

「落ち着け」

 

その言葉が私に投げ掛けられるすぐ横を、

 

眼鏡の男がなにか喚きながら

駆け抜けようとする。

 

キャップ女は間髪要れずに

右足を引っ掛け、

 

眼鏡の男はその場に転倒した。

 

「なにするのよ」

 

と、おばさんが叫んで、

私の背中を押す。

 

その力は私の前進しようとする力と併わさり、

じりじりとキャップ女は後退を始める。

 

「落ち着け。なにをする気だ」

 

なにをする気?

 

決まってる。

 

報復をしなければいけない。

 

同じ目に遭わせてやる。

 

子どもをゴミ同然に捨てながら、

 

202号室のドアの向こうに、

のうのうと生きているあの母親を。

 

「どきなさいよ」

 

と、おばさんが上ずった声で

キャップ女を怒鳴りつける。

 

すぐ横では眼鏡の男が

立ちあがろうとする。

 

「クソッ」と呻きながら、

 

キャップ女が右足を跳ね上げ、

男の顔面を蹴った。

 

ジャストミートはしなかったが、

 

眼鏡が弾けるように宙に飛んで

草むらに消えた。

 

「うわっ」と、

眼鏡の男は両手で顔を押さえる。

 

足を上げたせいで、

 

バランスを崩したキャップ女が

体勢を立て直す前に、

 

私は掴まれた肩を振りほどきながら、

一気に突進した。

 

一瞬、押し返されるような

強い反動があったが、

 

堰が切れるようにその壁が崩れる。

 

※堰を切る(せきをきる)

せき止められていたものが切れて、どっと流れ出る。

 

3人が絡み合うようにひっくり返り、

勢い余ったキャップ女の側頭部が、

 

階段の基部のコンクリートに

叩きつけられるのが目に入った。

 

私も地面に肘を強く打っていた。

 

痛みに顔を顰(しか)めるが、

すぐに立ちあがろうとする。

 

でも、

なにかが太腿の裏に乗っている。

 

邪魔だ。

 

おばさんの胴体か。

 

「アイタタタタ」じゃない。

 

すぐに部屋に行かないと。

 

この頭を掻き回すざわめきが、

どこかに去っていってしまう気がして。

 

いきなり服を引っ張られた。

 

後ろからだ。

 

首を廻すと、

 

青い眼の少女が震えながら

私の上着を両手で掴んでいる。

 

頭を振ってなんらかの否定の意を

表現しようとしている。

 

「離せ」

 

そう口にした瞬間、

 

なにか蛇のようなものが

首の根元に絡みついた。

 

次いで、

 

ぴたりとその本体が、

私のうなじのあたりに接着する。

 

「悪いね」

 

そんな言葉が耳元で囁かれ、

絡みついたものが私の首を締め上げる。

 

狙いは気道ではない。

 

頚動脈だ。

 

とっさに腕を背後に回そうとするが、

 

もっと力の強い別のなにかが、

私の胴体ごと腕を挟み込む。

 

意識が遠のいていく。

 

夜空には月が冷え冷えと輝いている。

 

星はあまり見えない。

 

暗い。

 

月も暗くなっていく。

 

苦しいけれど、

少し心地良い。

 

そこで世界はぶつりと途絶えた。

 

(続く)怪物 「結」-下巻 5/5

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