怪物 「結」-下巻 5/5
目が覚めた時、
私はベンチで横になっていた。
額の上に、
水で濡れたハンカチが乗っている。
指で摘みながら身体を起こすと、
銀色の光が目に入った。
公園だ。
辺りは暗い。
街灯に照らされた大きな銀杏の木の影が、
こちらに伸びて来ている。
キィキィとブランコが揺れる音がする。
「起きたな」
ブランコが止まり、
そちらからいくつかの影が歩み寄ってくる。
「良かった。
なかなか気がつかないから、
どうしようかと思ったのよ」
おばさんがホッとしたような顔で言った。
「だから言ったろ。
寝てるだけだって」
キャップ女が疲れたような動きで
右手を広げる。
じわじわと記憶が蘇って来た。
そうだ。
私は裸締めで落とされたのだ。
彼女に。
私は目を閉じ、
ドス黒い感情が身体の中に
残っていないのを確認する。
あれほど目標を破壊したかった衝動が、
全て体外に流れ出してしまったかのように、
すっきりとした気分だった。
「ぼ、僕たちはあの子の思念に
同調しすぎたんだ」
と、眼鏡の男が言った。
「あ、あやうく、
人殺しをさせられるところだった」
「ほんと勘弁して欲しいよ。
3対1だったんだから。
おっと、
あの青いのお嬢ちゃんも入れて3対2か。
まあ、手荒な真似して悪かったな」
力なく笑うキャップ女に、
眼鏡の男が頭を下げる。
「いや、おかげで助かった。
ありがとう」
その眼鏡のフレームは、
少し歪んでしまっている。
私はその時、
キャップ女の頬を伝う、
黒い筋に気がついた。
こめかみから伸びる乾いた血の跡だ。
転倒した時に、
階段の基部で打った部分か。
「ああ、これか。カスリ傷だ」
「痕にならないといいけど」
と、おばさんが心配げに言う。
「他にもいっぱいあるし、
いいよ別に」
そんなやり取りを聞きながら、
私は肝心なことを思い出した。
「あの子は、どうなったんですか」
一瞬、風が冷たくなる。
キャップ女がゆっくりと口を開く。
「現場維持のまま、撤退して来た。
・・・おい、ここでまたキレんなよ。
とにかく、
ここから先は警察の仕事だ。
私たちが動いていい段階は
終わったんだ」
あの子を、あの子の死体を、
ゴミ袋に入れられた状態のまま
放置したのか。
思わずカッとしかける。
「あの子は、母親を殺さなかった。
殺す夢を見ても、殺さなかった。
最後まで、殺されるまで、
殺さなかった。
ギリギリのところで、
そんな選択をした。
私たちが、この街の人たちが、
こうして静かな夜の中にいられるのも、
そのおかげだ」
目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、
目に映る全てが夏の夜の底に眠っている。
「ここに来るべきじゃなかった。
そんな警告すら、
あの子はしていたような気がする。
もう終わったことだ。
招かれざる侵入者は、
目を閉じて去るべきだ」
キャップの下の真剣な目が、
そっと伏せられた。
警告。
そうか、
あのコーンや道路標識は
そのためなのか。
では、あのカラスとヒトがくっついたような
不気味な生き物は?
誰もその答えは持っていなかった。
分からない。
分からないことだらけだ。
私は自分の住む世界のすぐそばで、
目を凝らしても見えない奇妙なものたちが
蠢いていることを、
認めざるを得ないのだろうか。
子どもの頃から占いは好きだったけれど、
心のどこかでは、
こんなもの当たるわけないと思っていた。
それでも続けたのは、
予感のようなものがあったから
なのかも知れない。
100回否定されても、
101回目が真実の相貌を覗かせれば、
※相貌(そうぼう)
物事のありさま・様子。
私たちの世界のあり方は反転する。
そんな期待を持っていたのかも知れない。
『変わってる途中、みたいな』
そうだ。
私は変わりつつある。
何故だか身体が武者震いのような
ざわめきに包まれる。
その瞬間、
背筋に誰かの視線を感じた。
それも強烈に。
誰もいないはずの背後の空間から。
キャップ女の身体が
目にもとまらないスピードで動き、
私の座るベンチの端に
足を掛けたかと思うと、
全身のバネを使って虚空に跳躍した。
そして闇の一部をもぎ取るように、
その右手が宙を引き裂く。
一瞬空気が弾けるような感覚があり、
耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、
そしてすぐに消え去る。
キャップ女の身体が落ちて来る。
そして土の上で受身を取る。
「逃がした」
起き上がりながら指を鳴らす。
なにが起こったのか分からず、
みんな唖然としていた。
「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」
誰も見ていない。
頭を振るみんなに、
構わず彼女は続ける。
「あれは、今回の件とは別だな。
個人的なもの。
あんたについてたんだ。
心当たりあるか」
名指しされて私は混乱する。
誰かに見られているような感覚は
確かにあった。
先輩の家でポルターガイスト現象の
話を聞いた夜。
いや、
その感覚はその前から知っている。
なんだ?
視線。
冷たい視線。
笑っているような視線。
表情を変えずに、
微笑が嘲笑に変わっていくような・・・
私の中に、
ある女の顔が浮かぶ。
その女は、
私のことは何でも知っていると言った。
そして、
私が駆けずり回って調べたようなことを、
まるで先回りでもするように、
全て知っていた。
はっきりとは言わないが、
間違いなく。
「気に入らないな。
ああいう、顕微鏡覗いて
マスかいてるような輩は」
※マスをかく
自慰行為を指す言葉。
キャップ女は口の端を上げて、
犬歯を覗かせた。
「迷惑なやつなら、シメてやろうか」
強い意志を秘めた炎が、
瞳の中で揺らめいている。
私はそれにひとときの間、
見とれてしまった。
「ま、困ったことになったら言えよ。
私はいつでも――」
夜をうろついているから。
彼女はそう言って、
ずれてしまったキャップを深く被り直し、
私たちに背を向けて歩き始めた。
「そういやさ」
思いついたように、
急に立ち止まって振り向く。
「こんくらいの背の、若いニイちゃん、
誰か見なかった?」
私たちのように、
この住宅街までたどり着いた人間
という意味だろうか?
全員が首を横に振る。
「あの、ボケェ」
キャップ女はそう吐き捨てる。
「じゃあ、こ~んな眉毛の、
ゴツイ奴は?」
またみんなの首だけが左右に振られる。
「アンニャロー」
そう言っておかしげに笑い、
「じゃあね」とまた踵を返して歩き出す。
「あ、そうそう。
ケーサツ、電話しとくから。
逃げといた方がいいよ。
私たちみたいな連中は、
こんなことに関わるとめんどくさいだろ。
色々と」
前を向いたまま、
高く上げた右手を振って見せた。
その影が公園の出口へ
消えて行くのを見届けたあとで、
残された私たちは顔を見合わせた。
「ぼ、僕も帰る。
明日は朝から会議なんだ。
じゃ、じゃあね」
眼鏡の男が踵を返そうとする。
その回転がピタリと止まって、
もう一度その顔がこちらに向いた。
「僕は、変なものを、よく見るんだけど。
お化けとか、そんなの、だけじゃなくて、
なんていうかな。
その、もう一人のキミが、いるよね」
ドキッとした。
秘密を覗かれた気がして。
「それ、きっと悪いものじゃないから。
気にしないでいいと思うよ」
じゃあ、と言って、
彼は去って行った。
「あら、そう言えば、
あの外人さんの子どもは?」
おばさんがキョロキョロと辺りを見回す。
銀杏の木の影に二つの光が見えた。
次の瞬間、
太い幹の裏側にスッと隠れる。
「ちょっと。
おうちまで送ってあげるから、
私と一緒に帰りましょう」
おばさんが木の幹に沿って、
裏側に回り込む。
まるで、眼鏡の男が
始めにしたような光景だ。
しかし、
見つめる私の目の前で、
おばさんだけが反対側から出て来る。
女の子の姿はない。
「あら?いない」
狐につままれたような顔で、
木の裏側を見ようと、
おばさんが再び回り込もうとする。
女の子が上手に逃げている訳ではない。
私の目にも、
おばさんだけがグルグルと木の周りを
回っているようにしか見えない。
女の子は忽然と消えていた。
「なんだったのかしら」
おばさんは立ち止まり、
首を捻っていたが、
気を取り直したように私の方を見た。
「私、市内で占い師をしてるから、
今度会ったららタダで占ってあげるわよ」
そう言ってウインクをした後、
痛そうに腰をさすりながら
公園の出口へ歩いて行った。
一人残された私は、
今までにあった様々な出来事が
頭の中に渦を巻いて、
軽い混乱状態に陥っていた。
蛾が街灯にぶつかって、
嫌な音を立てる。
色々な言葉が脳裏を駆け巡り、
目が回りそうだ。
その中でも、
ある言葉が重いコントラストで
視界に覆い被さってくる。
「救えなかった」
それを口にしてみると、
ゴミ袋から覗く土気色の顔が
フラッシュバックする。
そして暗い気持ちが、
段々と心の奥底に浸透し始める。
ゴミ置き場に無造作に捨てるなんて、
死体を隠そうという意思が感じられない。
まるで本当のゴミを捨てるような、
あっけなさだ。
どんな家庭でどんな母親だったのか
知らないけれど、
精神鑑定とやらで、
ひょっとすると罪に問われなくなる
のかも知れない。
子どもを殺したのに。
いや、直接手を下したのか
どうかは分からない。
だけど、
彼女はしかるべき罪に問われるべきだ。
ふつふつとドス黒い感情が、
胸の内に湧き始める。
いけない。
顔を上げて深呼吸をする。
呼吸の数だけ視界がクリアに
なっていく気がする。
また同じ過ちに身を委ねるところだった。
しっかりしないと。
もう自分しかいないのだから。
ゆっくりと土を踏みしめ、
公園の出口に向かう。
そして、
車止めの側に止めてあった
自転車に跨る。
終わったんだ。全部。
そう呟いて、
夜の道を帰るべき家に向かって
ハンドルを切った。
雲に隠れたのか、
月はもう見えなかった。
(終)
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