教育熱心な母の豹変

家事

 

俺が小学5年生の時の話になる。

 

ウチはいわゆるスパルタで、中学受験に向けて小学1年生の頃から言われるままに猛勉強の毎日だった。

 

母さんは明るくて優しいけれど、その分勉強には厳しかった。

 

でもそのお陰で、成績も結構優秀に。

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その時の光景は一生忘れない

四谷大塚の試験で賞やら何やらを貰ったり、毎日通っていた早稲田アカデミーでも何か一目置かれていたというか、少し特別扱いされていた。

 

そんなある日の朝、「今日お母さん午後いないから。カギを忘れずに持って出てね」と言われた。

 

塾は毎日17時~21時。

 

学校から帰ると、ランドセルから塾のカバンに持ち変えて自転車で通っていた。

 

俺は「はーい」と返事して学校に行った。

 

そして、放課後にグラウンドで少し遊んで帰った。

 

・・・が、カギを持って出なかった事に気付いてうろたえた。

 

当時は携帯電話なんか無かったし、文具は持っているから手ぶらよりは・・・と、仕方なくランドセルで塾へ行った。

 

ランドセル姿の俺に、先生も友達も皆笑っていた。

 

俺も適当におどけて笑っていた。

 

その時はまだ何も気付いていなかった。

 

気付くはずもなかったんだけれど・・・。

 

塾も終わり、いつもする様に、塾備え付けの電話から帰宅の旨を伝えようとして受話器を取った。

 

プルルル・・・プルルル・・・(ガチャ)

 

「あ、母さん?塾終わったから帰る」

 

「・・・」

 

「もしもし?」

 

「・・・トンッ・・・トンッ・・・」

 

「母さん?」

 

(ガチャン!!)・・・・・・ツーッ、ツーッ

 

終始電話口は無言。

 

途中に聞こえた音は良く分からなかったけれど、硬い物がぶつかり合ってる様な音だった。

 

俺は不思議に思いつつも、皆と一緒に帰りたくて電話をかけ直さずに塾を出た。

 

家に着くと、まず異変。

 

家の外灯が点いていない。

 

ウチは帰る時にチャイムを鳴らす習慣があって、鳴らすと廊下の電気を母さんが点けてくれるのだが、今日はそれも点かない。

 

でも鈍感な俺は気にせず門を通過した。

 

玄関開けると、廊下が真っ直ぐ伸びていて、左手側にキッチン。

 

玄関扉脇の磨りガラスから何となく中を見たら、キッチンの方から光が漏れていた。

 

(あぁ、なんだ居るじゃん)

 

ちょっと安心して玄関を開ける。

 

「ただいまー」

 

返事はなかった。

 

代わりに、トンッ・・・トンッ・・・と、硬い物がぶつかり合う音が響いている。

 

「母さん?」

 

もう一度呼び掛けながら中に進むと、ブニュッと何かを踏み付けた。

 

怪訝に思いながらも無視して暗い廊下を進み、キッチンの前に立って中を見た。

 

その時の光景は一生忘れない。

 

そこには母さんが立っていた。

 

まな板に向かって、右手には包丁を持って。

 

左手はだらんと垂れていて、まな板の上には粉々になったキャベツ。

 

それに包丁が一定間隔で降り下ろされ、トンッ・・・トンッ・・・と音が響き続けている。

 

床は廊下まで飛び散ったキャベツまみれ。

 

「・・・ただいま」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「何してるの?」

 

「・・・ぇ?」

 

「カバン」

 

「あ、カギ忘れて・・・」

 

「何してるのって聞いてるの!!」

 

ダンッ!!!

 

凄まじい勢いで降り下ろされる包丁。

 

ガタンと音を立てて跳ねるまな板。

 

飛び散るキャベツ。

 

「・・・あ、の・・・」

 

「意味ないでしょっ!意味ないでしょっ!アンタは!カバンも教材もなしに何してるのっ!意味ないのよ!!!」

 

あまりの衝撃に泣く事もできなくて、言葉も出なかった。

 

初めて見る母さんのヒステリーに胸が苦しくて怖くて、その後もヒステリックに叫び続ける母さんを眺めて立ち尽くしていた。

 

やがてヒステリーが収まって母さんが何も言わなくなってから、「・・・ごめんなさい」と呟いて、俺は玄関脇の自分の部屋に向かって暗い廊下を戻った。

 

戻る途中、さっき踏んだコレはキャベツだったんだ・・・と、妙に冷静に考えながら部屋に入った。

 

そのまま宿題を始めて小一時間後、親父が帰ってきた。

 

「ただいま~」

 

間の抜けた声が妙に温かくて、俺は体が震えた。

 

それから数分後、キッチンの惨状を見て、母さんを宥めたであろう親父が部屋に来た。

 

とても柔らかな笑顔をしながら間延びした声で俺の名を呼んで、大きな手でわしゃわしゃと俺の頭を撫でる。

 

堪えられなくなって色んなものが溢れそうだったけれど、出るのは涙ばっかりだった。

 

俺にとっては凄く怖くて温かった事件。

 

そんな親父には今も頭が上がらない。

 

(終)

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