私が知らないもうひとりの私の存在
小学2年になって引っ越すまで
住んでいた家について、
色々と不思議な体験がある。
片田舎というほどでもなく、
そこそこ拓けた新興住宅地の片隅にある、
賃貸の平家だった。
年中じめじめとした、
いつも陰影をまとったような情景が
思い浮かぶ。
背の高い土蔵のような隣家に挟まれ、
庭にひしめくように植えてある
ビワの木のせいで、
日中も陽が当たらない。
「元々あそこは田んぼだった」
という母の言葉を後年に聞いて、
なるほどと思ったものだ。
床板や柱はどれも黒ずんで朽ちやすく、
そして、どこからともなく
カビのような臭いが漂う、
そんな家だった。
記憶が定かではないが、
小学生に上がる前の年、
夏の夕方のことだった。
その日は昼前から新興住宅の区画に
住んでいる友達Yちゃんの家で遊び、
夕飯前にという親の言いつけを
忠実に守って帰宅したところで、
母が呆れたように言う。
「あんた、また遊びに行ってたの?」
「ううん、ずっとYちゃんの所に行ってた」
“また”、と言われて不思議だった。
母は弟と一緒に、
午後から出かけていたという。
帰宅して母の友人から電話があった際に、
電話に出たのが私だというのだ。
私が一度家に帰ってきて、
電話を取ったと思ったらしい。
「おかしいわねぇ・・・
誰が電話に出たのかね」
奇妙な出来事ではあったが、
その話題はそれでおしまいだった。
しかし数日後、
また同じような出来事があった。
今度は家族全員で外出していた。
翌日、前回と同じ母の友人が、
またこんなことを言った。
「Nちゃん(私)が留守番してて、
みんな居ませんって」
「そのおばちゃん、
適当なこと言ってるんじゃないか?」
父は、母の友人が
嘘をついているのではないか、
と冗談まじりに言ったが、
その友人と長い付き合いである母は
釈然としなかった。
「でも・・・色々Nと話したって言うのよ」
電話に出たという私は、
近所の友達のことや飼い猫のことを
ハキハキと答えたらしい。
それらは母が友人に話したこともない
具体的なもので、
とても作り話とは思えなかったという。
私はそんな両親の話に聞き耳を立てながら、
玄関の黒電話を横目で見ていた。
もうひとりの自分らしき子供が
薄暗いその場所で、
電話に向かって佇んでいる空想が
酷く気分を悪くさせた。
「あ、そうそう、
あとこんなことも言ってたの。
電話の向こうがすごいガヤガヤしてて、
テレビの音を下げてほしいって
何度もNに言ったって・・・」
「テレビって・・・聞こえるか?」
父は首を傾げていた。
狭い平屋とはいえ、
テレビのある六畳の居間と電話は、
対角線の端と端というほど離れていた。
壁まで挟んでいて、
通話に差し障るほど聞こえる
というのは考え難い。
そして3週間ほどの間に、
この出来事はもう一度あった。
その時は父の会社の人間からであり、
母の友人の嘘という疑惑は完全に消えた。
この家に来てからというもの、
こうした奇妙な出来事は
これが初めてではなく、
両親もこの話題を避けるようになった。
まだ小さい弟の世話に忙殺されて、
それどころではなかったように思う。
※忙殺(ぼうさつ)
非常に忙しい。
とはいえ、
この家でひとり留守番することへの
嫌悪感は次第に募っていき、
母が外出する時はなるべく家に
寄りつかないようにしていた。
新築のYちゃんの家は、
あの粘りつくような臭いや湿気とは無縁で、
よく避難場所として長居していた。
二人でいつものように遊んでいると、
Yちゃんがポツリと言った。
「Nちゃん、昨日、家に居た?」
「ううん、ずーっと居なかった」
「昨日さ、カブ取り行こうと思って
ママに電話してもらったら、
Nちゃん居るって言われて、
ママに受話器を渡された」
「それで・・・?」
おもちゃを持つ手が止まった。
「・・・Nちゃんじゃないのが出た。
変な声が後ろでウーウー言ってて
聞こえにくかった」
ゾクリとして、
一瞬にして体中の毛穴が広がっていく。
Yちゃんが何を話したのか気になって、
絞り出すような声で先を促した。
「Nちゃん・・・出してくださっ・・・いっ
・・・って言った・・・」
「・・・・・・」
Yちゃんの言葉に嗚咽が混じりだした。
※嗚咽(おえつ)
声をつまらせて泣くこと。むせび泣き。
見れば大きく口を開けて上を向き、
顔を歪ませながらポロポロと、
涙が頬を伝っていく。
「・・・わたしのなまえよんで、
みんな・・・であそぼっていって・・・
笑って、たくさんになって、きれた・・・」
いつのまにか、
あの粘り気がこの家にまで
忍び込んでいるような気がした。
その後、Yちゃんは大泣きし、
私も俯いたまま泣き出していた。
そして互いにようやく落ち着いて、
その後の話をしてくれた。
電話が切れた後、
心配になったYちゃんは、
急いで私の家に来てくれたという。
あの赤く染まった夕暮れを、
ぽっかり切り抜いたような黒い家。
インターホンを2回押し、
ドアの前に立った時、
足が震えて急な吐き気に襲われた、
ということだった。
ああ・・・
家に着いた時に門の脇にあったゲロは
それだったのかな・・・
他におかしなことといえば、
掛けて出たはずの家の鍵が開いていて、
お母さんが不思議がっていた。
蝉の声を遠くに聞きながら、
怖さよりもなにか途方もない無力感の中で、
そんなことを繰り返し考えていた。
その夏の終わりにかけて、
Yちゃんはりんご病を発症したとのことで、
まったく会えなくなった。
※りんご病
子供に多い病気の一つ。その名の通り、頬がリンゴのように赤くなるのが特徴で、正式には「伝染性紅斑」と言う。
そして、
そのまま私の前から消えるように、
新築の家と父親だけを残して、
母子は引っ越してしまった。
それ以来、
不思議と『私らしき誰か』の留守番現象を
聞くことは無くなっていた。
終息したのか、それとも・・・
親の気遣いで私にまったく
伝えなかったのかは分からない。
ひょっとしたらYちゃんはあの時、
ドアを開けてしまったんじゃないだろうか・・・
毎年いつも夏になると、
あの泣き顔が記憶の片隅から
蘇った時にふと、
そんな風に思うことがある。
(終)