どうせこんな事したからには罰が返る
何年か前のある朝の事だった。
学校が休みで田舎に帰っていた俺は、早朝から親戚が神主をしている神社の掃除に行った。
鎮守の森に囲まれた境内を掃き、箒目(ほうきで掃いた後にできた模様)を付けようと一本の木に基準を決め、その木に向かっていった。
すると、その木に何かがくっ付いているのに気が付いた。
「何じゃろ?」と思ってよく見ると、それは“両手に釘の打たれた藁人形”だった。
人を呪わば穴二つ
俺は腰を抜かし、慌てて社務所にいる叔父さんを呼びに行き、現場へ連れて行った。
それを見た叔父さんは、「八幡様の境内でこんな事しおって。気にするな、どうせこんな事したからには罰が返る」と。
そう言って、藁人形を燃やしてしまった。
その後、うちの近所で事故があった。
原付バイクで川に落ちた人がいた。
川も浅く、スピードも出ていなかったそうだが、その人は両腕を切断してしまう大怪我をした。
近所でもよくない噂の多い人だったが、警察の事故調査でこう言ったらしい。
「目の前に裃を着た侍が立っていたんだ」と。
ちなみに、その裃に付いていた家紋と、俺が祭りの時に着ている鎧櫃に書いてある家紋が同じだったそうだ。
※裃(かみしも)
和服における男子の正装の一種。
※鎧櫃(よろいびつ)
鎧を入れておく蓋付きの箱。
現実的な話をすると、『人を呪う』というのは物凄く強い思いで、あいつが憎い、不幸になれ、と強烈に思い考える。
人間の脳みそは精密に出来ているが、反面では大雑把な部分もあって、自分の中ではこれは確かに特定の人間に向けた思考なのだが、脳みそそのものは「不幸になれ」という思考は正確に認識しても、「あいつ」の部分は曖昧な状態になっている。
自分の感覚とは違い、脳みそ自体は自分と他者をはっきりと区別していない。
群れで生きる為に必要な部分ではあるのだが。
その結果、「不幸になれ」という思考が自分に向けたものかそうでないのかも区別が出来ず、誰かへ向けると同時に自分にも不幸になるように無意識の暗示がかかってしまう。
そうなれば、恨む思いが強ければ強いほど、自己暗示もより強烈になり、自然と自滅するよう行動する事になる。
無意識な分、歯止めもかからずタチが悪い。
これが『人を呪わば穴二つ』の真相だろうと思う。
昔の人がここまで分かっていたわけではないだろうが、実際は自分で自分に呪いを返していたという事だ。
諸説は色々あるが、自分的に一番腑に落ちた一説はこれだった。
(終)