病院 3/3

ナースステーション

 

俺は一人残された事務所で、

 

いよいよ切羽詰ったレセプト請求の仕上げと

格闘しなければならなかった。

 

やたらと浮き足立ってしまった心のままで。

 

泣きそうになりながら、

 

減らない書類の山に向かって

ひたすら手を動かす。

 

夜蝉も鳴き止んだ静けさの中で一人、

 

なにかとても恐ろしい幻想がやってくるのを

必死で振り払っていた。

 

よりによって、

次の日は10日の締め切りだった。

 

どんなに遅くなっても、

レセプトを終わらせなくてはならない。

 

チッチッチッという時計の音だけが部屋に満ちて、

俺はその短針の位置を確認するのが怖かった。

 

たぶん日付変わってるなぁと思いながら、

 

だんだん脳みその働きが

鈍くなっていくのを感じていた。

 

いつのまにウトウトしていたのか、

俺はガクンという衝撃で目を覚ました。

 

意識が鮮明になり、

そして部屋には張り詰めたような空気があった。

 

なぜかわからないが、

とっさに窓を見た。

 

その向こうには、闇と、

 

遠くに見える民家の明かりがぽつりぽつりと

偏在しているだけだった。

 

次にドアを見た。

 

なにかが去っていく気配があった気がした。

 

そして俺の頭の中には、

 

今日、所長に質問した中にはなかった、

奇怪な噂が新たに入り込んでいた。

 

遠くから蝿の呻くような音がする。

 

『誰に聞いたのか』

 

とはそういうことなのか。

 

『誰も言うはずがない話』

 

あるいは、

 

『所長以外、

誰も知っているはずがない話』

 

たとえば、

所長が最期を看取った人の話・・・

 

そんな話を俺がしたら、

今日のような態度になるだろうか。

 

そんな噂話を俺にしたのは誰だろう。

 

今、闇に消えたような

気配の主だろうか。

 

生々しい、そして、

 

ついさっきまでは知らなかったはずの

奇怪な噂が、

 

頭の中で渦を巻いている。

 

俺はここから去りたかった。

 

でも、絶対無理だ。

 

今あのドアを開けて、

暗い廊下に出て、

 

人の居ない病室を通り、

狭い階段を降り、

 

霊安室の前を行くのは。

 

俺はブルブルと震えながら、

このバイトを引き受けたことを後悔していた。

 

廊下の闇の中に、

 

なにかを囁き合うような気配の残滓が

漂っているような気がする。

 

※残滓(ざんし)

残りかす。

 

それからどれくらい経ったのか。

 

ふいに静寂を切り裂くような

電話のベルが鳴った。

 

心臓に悪い音だった。

 

でも、

生きている人間側の音だという、

 

そんな意味不明の確信にすがりつくように

受話器を取った。

 

「もしもし」

 

『よかったー。まだいた。

ねえ、そこに○○さんのカルテない?』

 

聞き覚えのある声がした。

 

ステーションのナースの一人だった。

 

『すっごく悪いんだけど、

 

今、○○さんの家から連絡があって、

危篤らしいから、

 

ほんと悪いんだけど、

 

今すぐカルテ持って

○○さんの家に来てくれない?

 

私もすぐ行くけど、

そっち寄ってたら時間かかりそうだから』

 

俺は「はい」と言って、

すぐにカルテを持って駆け出した。

 

ドアを開けて、

廊下を抜けて、

 

階段を降りて、

霊安室の前を通って、

 

生暖かい夜風の吹く、

空の下へ飛び出した。

 

所詮は臨時の事務職だ。

 

でもその日、

 

人の命に関わる仕事をしたという

確かな感触があった。

 

鬱々と下を向いてばかり

でなくてよかった。

 

人の死を興味本位で語るばかり

じゃなくてよかった。

 

こんな夜の緊急訪問はよくあることらしい。

 

でも俺にとって特別な意味がある気がした。

 

だからカルテを届けたあと、

 

また事務所に帰って

レセプト請求をすべて完成させるのに、

 

全精力を傾けられたのだろう。

 

次の日、

 

あまり寝てない瞼をこすりながら

出勤すると、

 

所長が、

 

「お疲れさま。

昨日は大変だったわね」

 

と話しかけてきた。

 

俺は、

 

「いえ、このくらい」

 

と答えたが、

所長は首を振って、

 

「やっぱりあなたには向いてない

職場かもね」

 

と優しい声で言うのだった。

 

俺はそのあと2週間くらいで、

そのバイトを辞めた。

 

いい経験になったとは思う。

 

でも、

 

人の死をあれほど受け止めなければ

ならない職場は、

 

やはり俺には向いてないのだろう。

 

俺があの夜にカルテを届けた人は、

その日の朝に亡くなった。

 

そしてその死を看取ったナースは、

すぐに次の訪問先へ向かった。

 

またその肩に死者の一部を残したままで。

 

(終)

次の話・・・「黒い手 1/4

原作者ウニさんのページ(pixiv)

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