壁越しに聞こえてくる女の声
引っ越して3ヶ月、大家のじいさんが亡くなった。
すると息子がやってきて、「ボロアパートを新築するから出て行って欲しい」と言われた。
貧乏学生だった俺は、当然のようにごねた。
「引っ越す金と時間が無い。当分無理」、と。
40くらいの息子は条件を訊いてきたので、「似たようなアパートをそっちで手配してくれ。それと敷金に礼金、引越し代金を全て負担するならすぐにでも出て行く」と言った。
妥協案を出した早々、その週の土曜日に運送屋がやってきた。
そうして、そのボロアパートからちょっと離れた物件に入居することになった。
半年後に精神を病む
木造モルタル2階建て、1DK、ユニットバス付、築30年くらい。
外観は今より若干マシ。
何よりも、家賃が同じでユニットバス付が嬉しかった。
内心、息子と不動産屋に感謝したくらいだ。
銭湯通いと共同トイレから解放されたが、コンビニや外食には不便なこともあり、それまで寝るだけだった部屋で過ごす時間が増えた。
この部屋なら女の子を招くことも出来るし、金があればデリヘルも呼べる。
そんな期待さえ出てきたが、仕送りなしの貧乏暇なし生活が変るはずもなく、彼女などは儚い夢に過ぎなかった。
相変わらずバイトと学校で毎日クタクタ。
だが引越して以来、休みの日は外出もせず部屋で過ごすことも多くなった。
そんなある休日。
部屋で試験勉強をしていたら、壁越しに女性の笑い声が聞こえてきた。
角部屋の隣人はサラリーマン。
ほとんど不在で、これまで話し声はおろか、テレビの音さえ聞こえてきたことはない。
見た目は普通の30代前半の、彼女がいてもおかしくない感じ。
俺は勉強よりも隣人がやるであろう行為が気になり始めた。
男と女が部屋に居れば、いつ始まってもおかしくない。
思い余った俺は壁にコップを押し当て、耳を澄まして気配を窺った。
物音はせず、なぜか甲高い女の笑いしか聞こえない。
後に気が付くが、それが事の始まりだった。
その日から一週間くらいして、夜になり再び女の声が漏れ聞こえた。
俺はそっと部屋を出て、外から全ての部屋をチェックした。
22時過ぎくらいだったと思うが、隣も下も部屋の明かりは消え、人の気配は無かった。
平日なら大体隣人が部屋にいる時間帯だったが、ドアの開け閉めくらいしか聞こえてこない。
みんな他人の迷惑にならないよう、ひっそり暮らしている感じだった。
アパートは最寄の駅から徒歩20分以上、まさに閑静な住宅地で、時々人恋しくなることもあるくらい静かだった。
一体あの声はどこから聞こえてくるんだ?
気になって仕方がなくなった頃には、3日おきくらいに女の笑い声に聞き耳を立てていた。
住人に女性は一人もいない。
それがどこから聞こえてくるのか、誰なのか、そして何を笑っているのか、俺は半年後に精神を病んだ。
いつしか女の笑い声はせつない喘(あえ)ぎ声に変り、俺は眠れなくなっていた。
もう壁に耳を当てる必要もなかった。
女の声は俺の頭の中で聞こえ、俺の名前を囁き、俺を誘惑するようになった。
しかし、恐怖は全然なかった。
ずっと夢だと思っていたし、女の呼ぶ声で眠りに落ちるようになっていた。
やがて学校やバイト先でも睡眠不足からミスが重なり、数人の友人が気にかけてくれるようになった。
そのうちの一人が、「最近彼女出来たやろ。やり過ぎは気を付けろよ」と、目の下に出来たクマを笑った。
最も仲の良い友人からは、「どこで知り合ったんだよ。今度紹介しろよ」と言われ、俺はこう答えたそうだ。
「紹介はちょっと無理かな」
俺は覚えていないが、はっきりとそう言ったらしい。さらに・・・
「彼女は39歳の会社員で、ずっと勤務先の男と不倫を繰り返してきたんだ。やっと独身の男と知り合えて、結婚まで決めてたけど捨てらたんだ。年はいってるけど凄い美人だよ。会社の受付嬢や秘書をやってたくらいだから」、と。
友人は驚いて、さらに訊ねたという。
「どうやって彼女にしたんだ?てか、写真とかないの?」
この時の俺は笑みを浮かべ、うっとりしとた表情だったらしい。
「だから無理だって。彼女は首吊って自殺したんだよ。ずっと前に死んでる。あと、知り合ったのは今住んでる部屋でだよ」
俺は友人によって命を救われたようだ。
けれど、今でも最愛の彼女を失ったような気がする。
(終)