山小屋に残された1足の古い登山靴
これは、後輩が体験した少し奇妙な話。
夏と秋、山小屋でアルバイトをしていた後輩が下山してきた。
朝から晩まで追い回されるように過ごし、ほんの少しの山歩きを楽しんだらしい。
その山小屋は、夕方ともなると宿泊する登山者で満杯になり、靴が整然と玄関付近を埋め尽くす。
無論、整然と靴を並べるのは我が後輩の役目だ。
指名されたわけではないが、なんとなく後輩の役目になってしまった。
靴を各自で保管すれば良さそうなものだが、小屋の主人の方針で、客の靴は玄関に並べておく。
翌朝、客が出かけ始めると、玄関から靴が消えていく。
ある朝、全ての宿泊客が出払った後、靴が1足だけ残されていた。
随分と年季の入った古い登山靴だった。
昨夜、これがあっただろうか?と思い返しても、はっきりしない。
覚えきれないほどの人数が泊まれるような施設ではないのだが・・・。
小屋の主人に声をかけ、靴を見に玄関へ戻ると、すでに靴はなかった。
翌朝、彼の忙しい1日が始まり、宿泊客の出発が一段落し、せわしない1日の中でも時間の流れが少しだけゆったりする頃、玄関の掃除を始めようとする彼が見るのは『昨日と同じ靴』だ。
小屋の主人を呼びに行った。
無論、2人が戻る時には靴など残っていない。
3日目の朝もその靴はあったが、もう彼は主人を呼びに行かなかった。
小屋の主人を連れて来ることが、靴の主を追い立てる行為に思えたからだ。
数日後の朝、客が出払った後の玄関に、その靴はなかった。
代わりに、食堂のテーブルに彼宛の封筒が置かれていた。
封筒を開くと、しわくちゃの千円札が1枚入っていた。
「客からの心付けだから取っておけ」
主人にそう言われた彼は、千円札を財布に入れた。
その千円札に印刷されている人物は『伊藤博文』だった。※千円札の肖像に伊藤博文が使われていたのは1963年~1986年までで、この話は2005年頃の体験談。
そして、あの靴と同じくらい年季が入った古い札だった。
(終)