営業時間終了間際の銭湯にて
今から十数年前、
私の身に実際に起きた
出来事です。
その日、
私は仕事が遅くなり、
自宅のアパートへ帰り着いたのは、
夜10時前でした。
早速風呂へ入ろうと思いましたが、
あいにく共同風呂のボイラーが故障中。
2~3日は入れないという事だったので、
近所の銭湯へ行くことにしました。
そこの銭湯は、
営業時間が夜10時まででした。
そのせいか、番台には
婆さんが座っていましたが、
脱衣所には他に誰もいませんでした。
私は、何であれ、
終了間際の雰囲気が
大の苦手なので、
風呂場に入るなり、
猛スピードで頭を洗い始めました。
カラカラカラと、
風呂場のガラス戸が開く
音がしました。
誰かが入って来たようです。
足音が私のすぐ後ろを横切って、
湯船の方へ向かいました。
ザァーザァーと、
湯を浴びる音が聞こえてきました。
頭の泡を洗い流して
湯船の方をチラっと見ると、
確かに誰かが入っています。
ただ、
極端に目の悪い私には、
湯船の人影はボンヤリとしか
見えませんでした。
と、その男がこちらに
声を掛けてきました。
「しかしこの辺りもえらい
変わってしまいましたなぁ」
どうやら、久しぶりに
ここらへやって来た人のようです。
それをきっかけに、
私とその人影は、
しばらく言葉を交わしました。
細かい内容は忘れましたが、
確かこんな事を言っていました。
「古い友人がここらに居りましてな。
そいつに大きな借りがあったんで、
それを返そうと思って・・・」
湯に浸かりながら、
5分ほど話を続けたのですが、
営業時間の事が気になった私は、
先に風呂場を出ることにしました。
脱衣所へ出て、
驚きました。
いつの間にか電気が消え、
真っ暗になっています。
番台に座っていたはずの
婆さんも居ません。
(もう閉めたんかな?)
そう思い、
慌てて服を着ました。
帰り際に風呂場の方を見ると、
さっきの人影が
今まさに出てくる様子で、
こっちへ近づいて来るのが
ガラス戸の曇りガラス越しに見えました。
外へ出ると、
表にパトカーが一台、
止まっていました。
(なんやろ?)
立ち去ろうとした私に、
警察官が話し掛けてきました。
「おい、こんなとこで何してるんや?」
「何て、風呂入りに来ただけですやん」
警官は妙な顔をしました。
「風呂って、今日はここ営業してないぞ」
「え、でもさっき僕入りましたよ、
おばちゃんに金払ろて・・・」
「おばちゃんって、ここの婆さんか?」
私が頷くと、
警官は背を向け、
背広の男を呼んで来ました。
その男は、
私に向かって言いました。
「ここの銭湯の爺さんがね、
今日の昼1時頃に灯油被って
自殺しよったんですわ。
すぐ通報があって、
私ら1時半にはここへ来ましてん。
あんたがさっき
番台におった言うたお婆さんな、
可哀想に、わしらが着いた頃には
気狂てしもて、今病院ですわ」
私は唖然としました。
「そんなアホな。一緒に、
おじいさんも入ってたんですよ」
「おじいさん?」
「そういや、まだ出て来てない
みたいですね・・・」
そう言って、
私は警官達と一緒に、
銭湯の中に入りました。
やっぱり脱衣所は真っ暗でした。
あの人影はどこにもいません。
風呂場のガラス戸を開けると、
湯気がモワっと出てきました。
「・・・おい、これ見てみぃ・・」
警官の一人が、
床を指差しました。
見ると、
泥だらけの足跡が、
湯船まで続いています。
その先の湯船の外に、
子供用の古い靴が
きちんと並んで置いてありました。
自分的には、これが今までで一番
洒落にならない体験です。
(終)