怪物 「幕のあとで」 1/2
前回の話・・・「怪物 「結」-下巻 1/5」
疲れ果て、
最後の気力を振り絞って
自転車を漕いでいた私は、
家まであと少し、
という場所まで来ていた。
すべてが終わったという安心感と、
なにもできなかったという無力感で、
力が抜けそうになる足を叱咤して、
どうにか前に進んでいた。
両側に家が立ち並ぶ住宅地だったが、
街灯の数が足らないのか、
いつも夜に通ると
少し心細くなる一角だった。
その暗い夜道の向こうに、
緑色の光が見える。
公衆電話のボックスだ。
子どもの頃の経験から、
お化けの電話と呼んでいる例の箱。
今、その電話ボックスから、
ヒトを不安にさせるような音が
漏れて来ている。
DiLiLiLiLiLiLi・・・
DiLiLiLiLiLiLi・・・
と、息継ぎをするように。
それに気づいた時、
一瞬ドキッとしたが、
すぐにその正体に思い当たる。
また、あの女だ。
私が帰る時間を見計らって、
ずっと鳴らしていたのだろうか。
それとも今も、
私の行く先をどこかで
覗き見ているのだろうか。
どっちにしろ近所迷惑だ。
こんな夜中に。
無視したいのは山々だったが、
溜息をついて自転車を降りる。
内側に折れるドアを抜け、
箱の中に滑り込む。
ベルの音が大きくなった。
緑色の鈍重そうなそのフォルムを
一瞥したあと、
※一瞥(いちべつ)
ちらっと見ること。ちょっとだけ見やること。
受話器をフックから外す。
そして、
耳と顎をくっ付ける。
「もしもし」
私の呼び掛けに、
受話器の向こう側で、
誰かの呼吸音が微かに聞こえた。
「もしもし?」
もう一度、繰り返す。
耳を澄まして少し待つ。
ようやく受話器から声が聞こえて来た。
『あなたは、だあれ?』
間崎京子じゃない。
一気に緊張した。
爪先から頭まで、
電流が走り抜ける。
『あなたは誰なのかな。
若い子ね。
同い年くらいかな』
聞いたことのない声だ。
けれど、
相手は若い女性であることだけは分かる。
『まあいいわ。
言うべきことを言うね。
・・・あなたは今、
すべてが終わったと思っているわね。
でもだめ。
終わってないの』
淡々と語る口調は、
一体この世のものなのだろうか。
私の脳が生み出した幻覚ではない
という保障は?
なんという名前だったか、
あの近所の男の子。
お化け電話から声が聞こえると言って、
怯えて逃げ出した子。
私の耳には聞こえなかった。
誰か今すぐここへ来て、
私の代わりに受話器に耳を
あててくれないか。
『あなたは死体の顔を見たわね。
すっかり血が抜けたみたいに
土気色をしていた。
一体どれくらい前に死んだのかしら。
6時間?半日?一日?
どちらにしても、
きっとあなたが駆けつける前から
とっくに死んでいたわね。
そう、死臭も嗅いだはずよ』
なんだ?
なにを言ってる?
なにを、言ってるんだ?
『あなたの、
あなた方の最後に見た夢は、
一体誰の見た光景なんでしょうね』
爪先から頭まで
電流の走り抜けた場所に、
今度は冷たい金属を流し込まれたような
悪寒が発生する。
『終わってないのよ。
途絶えたはずの意識に、
続きがあった。
そのかわいそうな子どもの魂は、
肉体の檻から解き放たれて、
今は夜の闇を彷徨っているわ。
そして少しずつ、
とっても恐ろしいものに
生まれ変わろうとしている。
それは檻の中にあっても、
街中に手が届くような力を持っていた。
名前は、まだない。
怪物に名前をつけてはいけない。
きっと取り返しのつかないことに
なるから』
ねえ、聞いてる?
受話器の向こうで、
誰かが首を傾げる。
『あなたはもう一度、
それに遭うことになる。
そして、
病いにも似た刻印を押され、
真綿で締められるような苦しみの中に
身を置くことになる。
忘れないで。
今夜出会った人たちが、
きっと助けになるでしょう。
顔をよく覚えておくことね。
あ、でもだめ。
一人はいなくなる。
“代が替わる”のね』
なにを言ってるんだ、一体。
(続く)怪物 「幕のあとで」 2/2