おろくさんにはできるだけ会いたくない
俺には沢登りや藪漕ぎのスキルはないが、山をやっているといつか『おろくさん』に遭遇するんじゃないかと密かに恐れている。※藪漕ぎ(やぶこぎ)=笹や低木の密生する藪をかき分けて進むこと
おろくさんというのは、山で遭難したご遺体のことだ。
大抵は白骨化しているが、場合によっては半生だったりする。
万一これに出会ってしまうと色々と事後が面倒なので、できるだけ会いたくない。
というより、会っても無視しようと思っている。
これはだいぶ昔のことになるが、まだ礼文島の西海岸を歩けた頃の話になる。
北海道にある礼文島は標高も低く大した山もないのだが、最果ての厳しい自然環境のせいで、海岸線のすぐ上が森林限界で高山植物が咲き乱れている、という不思議な島だ。
例えて言えば、本州の標高2500メートル以上の高山帯が、いきなり海の上に突き出ているみたいなもの。
なんでも江戸明治の頃に大規模な山火事があり、この後に森林帯が再生しなかったらしい。
そのせいで稜線上や西海岸は、人の住める限界を超えた吹きっ晒しの荒野になってしまった。
特に西海岸は林道すらなく、剣呑な岩壁が海へと切れ落ち、この世の果てのような寂寥感と精神が苛まれるような終末感が漂っていて、これがまた堪らなく素晴らしいわけだ。※剣呑(けんのん)=危険な感じがするさま ※寂寥感(せきりょうかん)=もの寂しい感じ ※苛まれる(さいなまれる)=苦しめられること
というわけで、ドMな俺は幾度となくここに足を運んだが、初夏の頃に宇遠内からアナマ岩に向かって西海岸を歩いていた時、岩場に打ち上げられた白骨遺体に出くわした。
「あーあ、やっちまった」
そう思った。
当時、庶民は携帯など持っていない時代だ。
こんな人気のない僻地で、最寄りの所轄まで一度連絡しに行き、それからここまで案内して戻るとか、絶対にあり得ない。
とりあえず見なかったことに…と思いながらも、ちょっとだけ観察してみた。
ご遺体の手足はもげていて、上半身だけ。
白骨と半生の中間ぐらいで、干からびた皮が若干だが骨にこびり付いている。
波に洗われたせいか、臭いはほとんど無い。
頭蓋骨は異様に変形しており、とても人間には見えない。
それに、よくよく見ると、どうやらイルカの死体だったというオチだ。
同じ哺乳類だからか、色々とパーツが似ているのか。
椎骨や肋骨なんかは、ほとんど人間と変わらない。
イルカを見慣れているわけではないので断定はできないが、周りの状況からそう推測した。
少なくとも、人間の頭蓋骨ではなかった。
そのまま召国分岐まで北上し、澄海岬でようやく人里に出たので、茶屋のおっちゃんに話してみた。
すると、「そういうことはよくある」と言っていたから、実際よくあるのだろう。
ただ、なぜこんな話を書いたかといえば、当時は動揺していて後で思い出したのだが、その死体の下顎骨に残っていた歯の一つが明らかに義歯だったからだ。
アマルガムとかいう、あれだ。※アマルガム=歯科用水銀
そのせいで、最初に見た時に人間と見間違ったのだと思う。
どういう経緯でイルカが義歯をしているのか知らないが、幸いなことに、今のところ『おろくさん』には会っていないし、もちろん今後も会いたくはない。
ただ、俺自身がおろくさんになってしまった時には、よろしくお願いしたい。
参考
おろくとは、遺体を意味する言葉であると文頭で述べているが、語源は『南無阿弥陀仏』の6文字の“おろくじ”から、あるいは死ぬと楽になることから“お楽”、とも様々な説がある。
(終)