このまま海の藻屑になるのは嫌だ
※この話にはグロテスクな描写が含まれています
これは、初めてラフティングに挑戦した時のこと。※ラフティング=ゴムボートに乗り激流の川を下るアウトドアスポーツ
8人乗りのボートが6槽あり、私たちは先頭のボートだった。
川の流れは予想以上に激しくて翻弄されたけれど、スリリングでとても楽しかった。
状況が一変したのは、ガイドの「あれ何だ?」の一言からだった。
見ると、黒いボーリングの玉のようなものが浮いている。
ん?えっ!頭!?
さらによく見ると、それは“うつ伏せで浮かんでいる男の人”だった。
その瞬間、もちろん全員が凍りついた。
衝撃のあまり、悲鳴を上げる人すらいない。
その後、後ろにいる他のボートをストップさせて、私たちのボートだけで彼を追い始めた。
レスキューすればまだ助けられるかもしれない、ということもあったと思う。
しかし、必死でオールを漕いだけれど、なかなか追いつけない。
しばらくすると、数人の女の子が泣き出した。
そしてそれは、私が思わず「頑張って!まだ間に合うかもしれないから」と言った瞬間だった。
「嫌だ嫌だ、このまま流されるのは嫌だ。海の藻屑になるのは嫌だ。帰りたい。家に帰りたい。ここは嫌だ。寒い。冷たい」
そんな声が聞こえた頭の中には、水の中から彼を追いかけている私たちの光景がはっきりと見えた。
まるで、私自身が流されているかのようだった。
そんな白昼夢の中でも、私の意識ははっきりしていた。
その時、すぅ~っと彼が私の元に流されてきた。
私はすぐに彼の着ていたフィッシングベストをオールに引っ掛けて、「捕まえたー!」と叫ぶと、ガイドが急いで近寄る。
そしてガイドと二人で彼を引き上げた瞬間、彼のシャツが捲れ上がった。
そこには、赤と青と紫の死斑が浮き上がっていた。
手は白蝋のように真っ白で、グローブのように膨れ上がり、皮膚は垂れ下がっていた。※白蝋(はくろう)=ハゼの木の皮から得られる主にロウソクの原料に使われる木蝋のこと
レスキューどころではなく、明らかに逝っている…。
とりあえず彼をボートに引き上げた。
その途端、とてつもない悪臭が漂い始めた。
ダメと思いつつ、ふと足元を見ると、なぜか赤い。
彼を見ると、体中の穴、目や耳や口から血が噴出している。
ボートにいるみんなは完全に青ざめていた。
ただ、そのままではボートが血の海になってしまう。
みんなは死に物狂いでオールを漕ぎ、なんとか砂地にボートを寄りつけると、蜘蛛の子を散らすようにボートから逃げ出した。
「やっと帰れる…」
その時に私の口から出た声は、”低い男性の声”だった。
その後は警察が来てガイドが事情聴取を受けたり、鑑識の人が手袋を赤く染めながら彼を調べたりしていた。
ただ、警察が血まみれのボートを洗ってくれるはずもなく、ガイドたちが半泣き状態でボートを洗っていた。
その晩、彼はしっかりと私の枕元に立って頭を下げていた。
この時には声は聞こえなかったけれど、翌朝に枕元がびっしょりと濡れていた。
(終)