深夜3時の非常階段にて 2/3
足元に全く光がないだけに、
ゆっくりした足取りになります。
皆疲れきって言葉もないまま、
6階の踊り場を過ぎた辺りでした。
突然、背後から囁き声が
聞こえたのです。
唸り声とか、うめき声とか、
そんなものではありません。
よく映画館なんかで
隣の席の知り合いに
話しかける時のような
押し殺した小声で、
ぼそぼそと誰かが喋っている。
その時は、
後ろの誰か(所長と係長あたり)が
会話しているのかと思いました。
ですが、
どうも様子が変なのです。
囁き声は一方的に続き、
僕らが階段を下りている間も
止むことがありません。
ところが、
その呟きに対して、
誰も返事をする様子が
ないのです。
そして、その声に
耳を傾けているうちに、
僕は段々と背筋が寒くなるような
感じになりました。
この声を僕は知っている・・・。
所長や係長やSの
声ではない。
でも、それが誰の声か
思い出せないのです。
その声の、
まるで念仏を唱えている
かのような一定のリズム。
ぼそぼそとした、
陰気な中年男の声。
確かによく知っている相手
のような気がする。
でも、それは決して、
深夜3時の暗い非常階段で会って
楽しい人物でないことは確かです。
僕の心臓の鼓動は、
段々と早くなって来ました。
一度だけ、足を止めて
後ろを振り返りました。
すぐ後ろにいるN子が、
きょとんとした顔をしています。
そのすぐ後ろにS。
所長と係長の姿は、
暗闇に紛れて見えません。
再び階段を下り始めた僕は、
知らないうちに足を早めていました。
何度か鳩の糞で足を滑らせ、
慌てて手すりにしがみ付くという
危うい場面もありました。
が、とてもあの状況で、
のんびり落ち着いていられる
ものではありません。
5階を過ぎ、
4階を過ぎました。
その辺りで、
背後から信じられない音が
聞こえて来たのです。
笑い声・・・。
さっきの中年男の声では
ありません。
さっきまで一緒にいた、
N係長の声なのです。
超常現象とか、
そういったものではありません。
なのに、
その笑い声を聞いた途端、
まるでバケツで水を
被ったように、
どっと背中に汗が吹き出るのを
感じました。
N係長は、
強面なる人物です。
凄く弁が立つし、
切れ者の営業マンなのですが、
事務所ではいつも
ぶすっとしていて、
笑った顔なんて
見たことがありません。
その係長が笑っている。
それも、すごくニュアンスが
伝え難いのですが、
子供が笑っているような
無邪気な笑い声なのです。
その合間に、
先ほどの中年男が、
ぼそぼそと語りかける声が
聞こえました。
中年男の声は陰気で
ほそぼそとしていて、
とても楽しいことを喋っている
雰囲気ではありません。
なのに、
それに答える係長の声は、
とても楽しそうなのです。
係長の笑い声と中年男の囁き声が、
そのとき不意に途切れ、
僕は思わず足を止めました。
笑いを含んだN係長の声が、
暗闇の中で異様な程に
はっきり聞こえました。
『所長・・・』
「何?・・・さっきから
誰と話してるんだ?」
所長の声が答えます。
その呑気な声に、
僕は歯噛みしたい程、
悔しい思いをしました。
所長は、状況を
分かっていない。
答えてはいけない、
振り返ってもいけない、
強く、そう思ったのです。
所長とN係長は、
何事かぼそぼそと
話し始めました。
すぐ後ろで、
N子が苛立って手すりを
カンカンと叩くのが、
やけにはっきりと
聞こえました。
彼女も苛立っているのでしょう。
ですが、
僕と同じような恐怖を感じている
雰囲気はありませんでした。
しばらく、
僕らは階段の真ん中で
立ち止まっていました。
そして、
震えながら僅かな時間を
過ごした後、
僕は一番聞きたくない音を、
耳にすることになったのです。
(続く)深夜3時の非常階段にて 3/3へ