母が大切にしていた三つ折れ人形

人形

 

私の実家には着物の袖が少し焦げ、右の髪が少し短い一体の日本人形がある。

 

桐塑で出来た顔には、ちゃんとガラスの目がはめ込まれていて、その上に丁寧に胡粉の塗られた唇のぽってりとした、とても愛らしい顔の人形だった。

 

※桐塑(とうそ)

粘土の一種。 桐の粉末に正麩糊(しょうふのり)をまぜて作った粘土で、強度を出すために和紙が混ぜ込まれているものもある。(Wikipedia引用)

 

※胡粉(ごふん)

顔料のひとつ。現在では貝殻から作られる炭酸カルシウムを主成分とする顔料を指す。(Wikipedia引用)

 

牡丹の花柄をあしらった黒い着物がよく似合っていて、帯にも本物の金糸が入っていた。

 

しかし何より変わっているのは、その人形は膝と大腿部が曲がるように出来ていて、正座をさせることが出来る。

 

これが『三つ折れ人形』というもので、今でもなかなか珍しく、また高価な人形だった。

 

いつの頃からあったのか、母の実家に祖母が嫁いだ時にはすでにあったという。

 

母の実家は江戸の頃から続く大きな薬種問屋を営んでいて、一時は大層なものだったらしい。

 

なにしろ遊ぶ玩具が無いからと、金の鈴を手鞠代わりにして遊んだと云われていたぐらいだから、恐らくそんな背景の中で家に来たのかも知れない。

 

もちろん母の時代には、すっかり零落してしまっていたが。

 

※零落(れいらく)

落ちぶれること。

 

ともかくも、母はその人形をとても大切にしていたそうである。

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焦がされた人形の怨み、それとも・・・

毎年の桃の節句には、雛人形と一緒に雛壇の端にその人形は飾られた。

 

けれども、その年は時節柄、また母が不在だったこともあり、家ではいつもの雛壇を飾ろうとは思わなかったそうだ。

 

確かにそうだが、女の子にとっては大事な節句。

 

祖母は母が帰って来たら寂しがるだろうと思い、簡単ではあるが雛人形一式の入った長い箱に赤い毛氈(もうせん)を敷き、内裏雛の男雛と女雛だけを飾り、その端にあの人形を座らせる事にしたそうである。

 

ちょうど近所の娘さんが遊びに来ていた、当時16~17歳だったのではないだろうか。

 

深川小町と噂される程の大変綺麗な人だったそうである。

 

その人と二人で慎(つつ)ましい雛壇を飾ったそうである。

 

ところが、いざあの人形を飾る段になって、うまく座らない。

 

胴体にも厚く胡粉が塗られてあってバランスは良く、普段はすぐに座るはずが、その時はコロリと倒れてしまった。

 

再び試みても同じであった。

 

数度繰り返して見かねた祖母が、「代わろうか」と言おうとした時にようやく座った。

 

やれやれと思って雪洞(ぼんぼり)に灯りを点けた時、また一人でにコロリと倒れ、畳に落ちた。

 

その拍子に雪洞も人形の上に倒れて、着物の袖と髪を少し焦がしてしまったそうだ。

 

髪の毛が焦げるイヤな臭いが辺りに立ち込めたというから、恐らく頭髪も人毛だったのだろう。

 

娘さんは大変恐縮して帰って行ったそうである。

 

その後に祖母が再び座らせると、一度でぴたりと座った。

 

そして人形は主人が帰るまで、黙って座って待っていた。

 

時は昭和20年3月10日。

 

運の悪い事に、母はそれまで静岡の方に学童疎開をしていたが、当時6年生であり、卒業進学の為にその一部の生徒は数日前から東京に戻って来ていた。

 

その日、日付が9日から10日に変わって間もなく、空襲警報が鳴らされた。

 

母と、まだ乳飲み子だった弟を背負った祖母は手荷物だけを持ち、かねてから決められていた近くの防空壕に急いで飛び込んだそうである。

 

(その頃、祖父はすでに他界していた)

 

街中の防空壕であるから斜面に穴を穿(うが)つものではなく、竪穴式で中を四畳程に掘り広げ木材等で補強しただけの甚(はなは)だ頼りないものであったらしいが、この場合は無いよりは遥かにマシである。

 

入り口には木枠にトタンが張り付けられた蓋が付いていた。

 

そこに班の者が膝を寄せ合って爆撃機の去るのを待つのである。

 

班長が中にいる者の点呼をとる。

 

ところが、件の娘さんの一家だけがまだ来ていなかったそうである。

 

入り口に一番近い場所に座っていた母は蓋をそっと細く開け、外を覗いてみた。

 

向こうから娘さんが、その後ろからその母親がこちらに向かって走って来るのが見えたそうだ。

 

「ハヤクハヤク」

 

母は小さく叫んだそうだ。

 

あと数メートルという所で、彼女のすぐ後ろに焼夷弾(しょういだん)が落ちた。

 

後ろを走っていた母親に直撃し、きっと即死だったろう。

 

そして娘の方は・・・。

 

実際、そんな時の悲鳴というのは物凄いものだそうだ。

 

叫びというよりは咆哮。

 

※咆哮(ほうこう)

猛獣などが、ほえたけること。また、その声。

 

聞きようによっては、それこそ警報のサイレンにも聞こえる。

 

そして、人間は青い炎を噴き上げながら燃えるということも知ったそうだ。

 

焼夷弾の硫黄の臭いと、髪の毛を焼く臭いが鼻を突く。

 

彼女はしばらくの間、立ちながら焼かれていたそうだが、やがて彼女の悲鳴は次第に細く高くなり、ついに崩れ折れ、それでもまだ青い炎を上げていたそうだ。

 

その間、母は瞬(まばた)きすることも出来ず見ていたらしい。

 

地獄の炎、そんな言葉が頭に浮かぶ。

 

深川への爆撃は20分程も続いたらしいが、恐ろしく長い時間に感じられたそうである。

 

しかも爆撃機はまだ上空を通過しており、今度は浅草の方の空が真っ赤である。

 

辺りは火の海で、このまま壕に居たら蒸し焼きになってしまう。

 

母達は壕を出て、火の来ない所へ移動する事にした。

 

去り際に、あの娘の遺体を振り返った。

 

あの綺麗な人が、丸坊主でほとんど炭のようになっていたそうである。

 

なぜか赤子のように手足を屈(かが)め、なんだか正座しながら拳闘でもしているような形で死んでいたそうである。

 

母が家に戻ったのは、もう夜が明けてからだった。

 

周りにはまだ火を噴いている所もあり、母達は”家はもうとっくに焼けて無くなった”ものと思っていた。

 

けれど、そうではなかった。

 

家は屋根を少し焦がしただけでそこにあった。

 

辺りの多くの家はまだ燻(くすぶ)っているのに・・・。

 

玄関に男が一人座っていた。

 

祖母の兄、私にとっては大叔父にあたる人だった。

 

その人は深川が爆撃を受けた事を知ると、妹の身を案じ、品川から深川まで飛んで来てくれたのだ。

 

そして、あの火の中をありったけの水をかき集めて、降り注ぐ火の粉を夜通し払ってくれていた。

 

実際、偉い人でした。

 

私もあの人の前では生涯、膝を崩すことは出来なかった。

 

そして焼け残った家の中で、あの人形はちゃんと座っていたそうだ。

 

それ以来、人形は座ることはなかった。

 

人形ケースの中で背中を棒で支えられ、もう何十年も立っている。

 

(終)

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