海に引きずり込まれた若者の変貌
これは、海にまつわる話です。
おとぎ話の『浦島太郎』は有名な竜宮伝説の一つですが、これに似たような話があります。
漁村で暮らす若者の茂吉さんは、とても快活な好青年でした。
結婚して娘が一人いて、夫婦仲も良く、若いながら村でも信望を集めていて、色々と世話役としても信頼されていました。
そんなある日、茂吉さんが漁に出たまま帰らないことがありました。
夜になっても帰らない。
村人が船を出したり海岸を歩いて捜したところ、彼の小さな漁船が無人で漂っていたのが発見されました。
しかし、茂吉さんは見つからない。
幸福を感じたら源を断つ
行方不明から二日後の朝、茂吉さんは海岸で座り込んでいるのを発見されました。
健康に問題はありませんでしたが、彼は人が変わったように無口で陰気な感じになっていました。
家族に対しても愛想が悪く、人とほとんど口を聞きません。
「ああ、うぅ」と言うばかりでした。
記憶喪失か?というとそうでもなく、自分の家のこと、村のこと、仕事のことなどは覚えていて、問題なくこなします。
ただ、無口でよそよそしい。
遭難して少し頭がおかしくなったのか?とも村人たちは思いましたが、字も書けるし計算も出来る。
茂吉さんの両親や妻は彼の変貌ぶりに当惑し悲しみましたが、本人は気にしていない様子。
それから何年か経ったある時、茂吉さんは徴兵されて支那へ。
のちに彼の戦死通達が届きましたが、それと同じくらいの頃に茂吉さんから家族に向けての手紙も届きました。
手紙には時候の挨拶と現地が自分の漁村とどんなに違うかということの他に、次のようなことが書かれていました。
『自分が漁で遭難して帰ってから無口になり、あまり家族と良く接しなかったのは訳がある』と。
詳細は以下の通りです。
あの日、茂吉さんは突風によって回転した帆に当たり、海に落ちました。
しかし、それくらいは何のことはありません。
すぐに船に上がろうとしましたが、後ろから何者かによって海に引きずり込まれたそうです。
手足や肩を掴んでくる者を水中で蹴って振り払おうとしましたが出来ず、気を失いました。
気が付いた時には大きな屋敷の広い座敷に寝ていたそうです。
助かったと思っていると、数名の男が一人の少女を連れて襖を開けてやってきました。
その中の一人が言うには、「おまえは、この少女と夫婦になって、ここで暮らせ」と。
それだけを言うと男たちは退室し、10歳ほどの少女だけが残されました。
茂吉さんは当惑しましたが、気丈さを取り戻し、少女に「ここはどこだ?彼らは何者だ?」と尋ねました。
しかし、少女は何も言いません。
どのくらい時間が経ったのか分りませんが、再び一人の男が食事を持ってきました。
その時、茂吉さんはその男に、「早く自分の家に帰してくれ。ここで住むつもりもない。この少女と夫婦となる気もない」と強く言いました。
男は無関心に退室しましたが、今度はその少女が口を開きました。
「おまえはなんと憎いことよ。我々の申し出を断るとは。それほどなら帰してやる。しかし、今後お前が幸福を感じたら、お前の幸福の源を断つぞ」と大人びた口調で言ったそうです。
おそらく、茂吉さんにとっての幸福とは『家族』だったのでしょう。
その後の記憶は茂吉さんには無く、気が付くと海岸で村人に保護されていたと。
しかし茂吉さんは少女の言葉が気になって、家族の元に帰っても無愛想で無関心な態度を貫いたのだとのことでした。
家族に対して、そのような態度をとって悲しませたことを申し訳ない、と述べてあったそうです。
普通なら、あまり細かいことを書いた手紙は軍の検閲に引っかかってしまうのですが、この手紙はそのまま届いたそうです。
そして戦争が終わった頃、茂吉さんと同じ隊にいた兵士が訪ねて来たそうですが、彼によると、軍隊での茂吉さんはとても快活で他人にも親切で、勇敢に戦って戦死したとのことでした。
その姿は遭難する前の茂吉さんであったと、家族には感じられたそうです。
(終)