みずがみさま 3/4
夕飯はカレーだった。
ただし、ここで作ったものでは無い。
母が家から鍋ごと持って来たのである。
しかも飯盒も米も無いので、
別の鍋でうどんを茹でて、
カレーうどんという体たらく。
何故キャンプに来て、昨日の残りの
カレーを食べなければいけないのだ。
何故、白米が無いのだ。
ここでも結局、
私のみがブーたれていた。
食事の後は、焚き火の光を目印に
集まってきた虫達と一緒に、
夜の景色を眺めたり、
誰かと適当に話をしたり、
父のウィスキーを少し舐めさせてもらい、
母に怒られたりした。
時間は驚くほどゆっくり流れ、
夜空にはどこも欠けることのない
満月と共に、
今にも落ちてきそうな、
もしくは逆にこちらが吸い込まれそうな、
満天の星空が輝いていた。
酒のせいか、
いつテントに入ったのかは
覚えていない。
気がつけば、
私は寝袋を敷布団にして、
仰向けに寝転がっていた。
右を見ると父と母が、左には
くらげが少し離れたテントの隅で、
まるでカブトムシの幼虫の様に
身体を丸めて眠っていた。
どうして目が覚めたんだろう。
外の焚き火は消えている様だった。
辺りはしんと静まり返り、
虫の鳴き声が唯一、
静寂を一層際立てていた。
私は上半身を起こした。
寝起きだというのに、
何故か自分でも驚くほど
目が冴えていた。
目だけじゃない。
五感がこれ以上ない程に、
はっきりとしている。
何か居る。
ほとんど直感で、
私はその存在を認識していた。
テントの外に、
うごめく何かが居る。
直感に次いで、
這いずる音が聞こえた。
そのうち、不意にテントの壁に、
大きな影が映った。
私の背よりは大きくないが、
横にかなりの幅がある。
そいつはテントの周りをのそのそと、
入口の方まで移動して来た。
私は無意識のうちに、
テントの入り口に近寄っていた。
二重のチャックは二つとも閉じている。
薄い布二枚隔てた向こうに何かが居る。
不思議と、熊かも知れないとは
思わなかった。
そいつの足か、もしくは手が
テントに触れた。
でかい身体の割には、
随分と細い手足という印象だった。
細くて、先が鋭い。
みずがみさま。
ガジガジガジガジ、と、
まるで錆びた金属同士を
こすり合わせたような、
そんな音がした。
鳴き声だろうか。
そうだとしたら、
そいつは熊ではあり得無い。
私は手探りでテントの中に転がっていた、
懐中電灯を見つけ出した。
片手に握りしめ、
もう一方の手でゆっくりと
出入り口のジッパーに、
手をかけた。
じりじりとジッパーを下ろしてゆく。
片手が入る程の隙間。
その隙間に、私は光の点いていない
懐中電灯を向けた。
スイッチを入れようとした。
その瞬間、
突然後ろから肩を掴まれた。
驚く間もなく口を塞がれる。
く「・・・静かに」
耳元でもようやく聞こえる程の小さな声。
くらげの声だった。
いつの間に起きていたのだろうか。
後頭部から彼の心臓の鼓動が、
はっきりと聞こえていた。
自分の心臓の音も聞こえる。
いつの間にか、懐中電灯が
取り上げられていた。
く「今は駄目だ。相手にも
こっちが見えるから」
外の気配は相変わらず、
すぐそこにあった。
く「見えるってことを、
知られちゃいけない。
見えないふりをしないと」
小さく囁くその声が、
僅かに震えているのが分かった。
そこでようやく、
私の頭の芯が冷えてきた。
私は鼻で大きく深呼吸を二回すると、
くらげの膝を軽く二度叩いた。
くらげが私の口から手を離した。
星明かり月明かりのおかげで、
テントの中でもそれ程暗くない。
テントに映る影。
改めて見ると、
影の高さは膝を立てて座った時の、
私の目線とほぼ同じだった。
私が開いたジッパーの隙間から、
その姿の一部分が見え隠れしている。
ただし、夜中だったせいか、
黒くしか見えない。
ガジガジガジガジ。
あの音がする。
不快な音だ。
どうして両親は起きないんだろう、
と思った。
もしかしたら、彼らには、
聞こえていないのかもしれない。
私とくらげ、
二人だけに聞こえている。
くらげと一緒に居ると、
私にも常人には見えないものが
見える時がある。
それをくらげは、
『病気がうつる』と表現していた。
見えてしまう病気。
それは時には、見えてしまうがゆえに、
様々な症状を誘発する。
くらげから離れさえすれば、
この病気は治る。
それでも私は、
くらげと友人でいた。
一度覗いてしまった非日常の世界を、
簡単に手放すことは出来なかった。
しかし、この病気は悪化もするのだ。
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