みずがみさま 4/4
どのくらい動かずに居ただろう。
不意に、外に居るそいつが、
背を向けたのが分かった。
気配がテントから離れていく。
暗闇の中、
私とくらげは目を合わせた。
く「・・・ライトは駄目だよ」と、
くらげが小声で言う。
私は頷いた。
二人でそっと、
テントの出入り口に近づく。
手が一つ入る程だったジッパーの隙間を、
もう少しだけ広げた。
二人で片目ずつ、外を覗く。
息を飲んだ。
虫だ。
四本の足で這いながら、
湖の方へと近づいて行く。
そいつはとてつもなく大きな、
まるで私たちが小指大まで
縮小してしまったのかと思う程大きな、
昆虫だった。
枯れた水草のような色。
その畳二畳分はあるだろう背中。
頭から横にはみ出した、
車すら挟み潰してしまいそうな
巨大な鎌状の前足が二本。
く「・・・タガメだ」
くらげが小さく呟いた。
湖の傍まで来ると、
そいつは突然立ち止まり、
動かなくなった。
その背中がもぞもぞと動く。
同時に、ガジガジガジ、
とあの音がした。
あれは、虫が身体をこすり合わせる
音だったのだ。
そう思った途端、
いきなりその背中が二つに裂けた。
身体の大きさが横方向に突如、
膨れ上がった様にも見えた。
羽を広げたのだ。
その四枚の羽根が、
目に見えない速さで振動する。
ざあ、と風が吹いて、
テントが揺れた。
飛ぶ。
その大きな体がふわりと、
地面から少しだけ浮いた。
水面に波紋が立つ。
飛び上がるというよりは、
水面を滑る様に。
徐々に上昇していって、
あっという間に木々の向こうへと
飛び去ってしまった。
湖はまた静かになった。
私はしばらくの間、
動くことも声を発することも
出来なかった。
くらげがジッパーを開いて外に出た。
湖の方へと歩いて行き、
先程あの巨大な虫が飛び立った場所で、
立ち止まった。
く「やっぱり、みずがみさまは、タガメだった。
おばあちゃんに聞いた通りだ・・・」
夜空に向かって、
くらげは呟く様にそう言った。
その声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
私も外に出てみる。
見ると、焚き火をした後の灰の中に、
未だ赤くくすぶっている薪があった。
あの虫は、この僅かな光につられて
やってきたのだろうか。
ぶるり、と私は一つ震えた。
私「・・・もし捕まってたら。
どうなってたんだろな」
タガメに関する知識で、
蜘蛛のように獲物の内臓溶かしながら
少しずつ吸う性質がある、
ということを私は思い出していた。
く「もし捕まったら、僕ら
お供え物になってたね。
きっと今年、この辺りで水害は
起きなかったはずだよ」
私の傍に来て、くらげがそう言った。
お供え物。
私はくらげを見て、
思わず笑ってしまった。
すると、くらげは不思議そうな顔をした。
どうやら冗談で言ったのではないらしい。
今年水害が起こったら、それは、
私たちのせいでもあるということか。
母「あら・・・、二人とも早起きやねぇ」
声のした方を向くと、
母がテントから顔だけ出していた。
私の笑い声で起こしてしまったようだ。
見ると、辺りが段々青白く
明るんできていた。
朝はもう、すぐ近くまできている。
母「何しゆうんよ。二人で」
母の言葉に、
私たちは顔を見合わせた。
どう説明したらいいものかと一瞬悩んだが、
私は本当のことを話すことにした。
私「いや、あのさ、テントの外に
でっかいタガメが居るの見つけて、
ちょっと観察してたんだけど・・・」
嘘は何も言っていない。
母は目をぱちくりさせた後、
小さく溜息を吐いた。
母「ねぇ、くらげちゃん」
その時の母の笑顔は、私が今まで
見たこともないようなものだった。
母「ウチの子、こんなに馬鹿なんだけど。
これからもお願いね?」
するとくらげは、
珍しく少し戸惑ったような表情をしてから、
こう言った。
く「あの、僕、ずっとは無理ですけど・・・、
出来る限り、そうしたいと思ってます」
数秒の間を置いて、母が笑った。
当のくらげは、
やっぱり不思議そうな顔をしていて、
どうやらこれも冗談ではないようだ。
くらげの言葉。
きっと母と私では、
違う受け取り方をしただろう。
正直、おいおいおい、と思ったが、
私は笑って流すことにした。
(終)
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