古い家 1/5

地下階段

 

聞いた話である。

 

「面白い話を仕入れたよ」

 

師匠は声をひそめてそう言った。

 

僕のオカルト道の師匠だ。

 

面白い話などというものは、

額面どおり受け取ってはならない。

 

「県境の町に、

古い商家の跡があってね。

 

廃墟同然だけど、

まだ建物は残ってるんだ。

 

誰が所有してるのかわからないけど、

取り壊しもせずに放置されてる。

 

誰も住んでいないはずのその家から、

夜中、

 

この世のものとは思えない呻き声が

聞こえるっていう噂が立ってね。

 

怖がって地元の人は誰も近寄らない。

 

どう、興味ある?」

 

大学2回生の夏だった。

 

興味があるのないのという

ハナシではない。

 

ただその時の僕は、

 

『ああ、今回は遠出か』

 

と思っただけだ。

 

その夏は1年前の夏と同様に、

いやそれ以上に、

 

怖いものや恐ろしいものに、

むやみやたらと近づく毎日だった。

 

その日常は、なだらかに下る

斜面の様に狂っていた。

 

普通の人には触れられない

奇怪な世界を垣間見て、

 

恐ろしい思いをするたびに、

 

目に見えない鍵を

渡されたような気がした。

 

その鍵は一体どんな扉を

開けるものなのかも分からない。

 

使うべき時も分からないまま、

鍵だけが溜まっていった。

 

僕はそれを持て余して、

 

ひたすら街を、山を、森を、道を、

そして人の作った暗闇をうろついた。

 

その日々は、

 

頭のどこか大事な部分を麻痺させて、

正常と異常の境を曖昧にする。

 

どこか現実感のない、

まるで水槽の中にいるような夏だった。

 

ゴトゴトと軽四の助手席で揺られ、

僕は窓の向こうの景色を見ていた。

 

師匠の家を夕方に出発したのであるが、

今はすっかり日が暮れ、

 

そそり立つ山々が

黒い巨人のような影となって、

 

不気味な連なりを見せている。

 

最後にコンビニを見てから

どれくらいだろうか。

 

寂れた田舎の道は曲がりくねり、

 

山間の畑の向こう側に

時々民家の明かりが見えるだけで、

 

あとは思い出したように現れる、

心細い街灯の光ばかりだ。

 

カーステレオはさっきから、

稲川淳二の怪談話ばかりを囁いている。

 

時々師匠がクスリと笑う。

 

僕はその横顔を見る。

 

ハンドルを握ったまま、

ふいに師匠がこちらを向いて言った。

 

「こないだ、くだんを見たよ」

 

「え?」

 

と聞き返したが、

彼女は繰り返してくれなかった。

 

代わりにぷいと視線を逸らして、

 

「やっぱ鈍感なやつには教えない」

 

と言った。

 

なんだか釈然としない思いだけが残ったが、

師匠の言動は解釈がつくものばかりではない。

 

気がつくと道が広くなり、

山が少し遠くへ退いて見える。

 

道の傍の防災柱が目に入ると、

時を置かずに農協の看板が現れた。

 

ポツリポツリと、

民家や小さな公共施設が見え始める。

 

「この辺に停めよう」

 

と言って、

 

師匠は土建会社の資材置き場のような

スペースに車を乗り入れて、

 

エンジンを切った。

 

人気はまったくない。

 

師匠はダッシュボードから

懐中電灯を取り出して、

 

手元を照らす。

 

手描きの地図のようだ。

 

「こっち」

 

バタンとドアを閉めながら、

師匠は歩き出した。

 

僕は後ろをついていく。

 

死んだように静まり返る、

古い田舎町の中を進むあいだ、

 

動くものの影すら見なかった。

 

懐中電灯に照らし出された道には、

時々なにかの標語が書かれた看板が見え、

 

どこか遠くでギャアギャアと鳴く

鳥の声ばかりが、

 

間を持たせるように聞こえて来る。

 

腕時計を見ると、

まだ深夜12時にもなっていない。

 

ここでは、

 

僕らが知るそれよりも、

夜が長いのだと感じた。

 

『こうも寂しいと、

逆に人とすれ違うのが怖いな』

 

と思って内心ゾクゾクしていたが、

誰とも会わなかった。

 

微かに聞こえてきた蛙の鳴き声が大きくなり、

やがて用水路の側の畦道に行き当たった。

 

そこを道なりに進んでいくと

黄色い街灯がポツリと立っていて、

 

その向こうに暗い建物の影が見えた。

 

「あれかな」

 

師匠が懐中電灯を向ける。

 

近づくにつれ、

 

その打ち捨てられた家屋の様子が

分かってくる。

 

一体どれほど昔からここに建っているのか。

 

背後の雑木林もまったく手入れが

された様子はなく、

 

黒々とした巨大な手のように、

その家の敷地へ枝を伸ばしている。

 

周囲にはかつて家が建っていたらしい土台や、

ボロボロで屋根もない小屋などが散見できたが、

 

かつて商家があった一角の面影はまったくない。

 

この世のものとは思えない

呻き声が聞こえる、

 

という噂を思い出し、

自然に耳をそばだてたが、

 

聞こえるのは蛙の鳴き声と

風の音だけだった。

 

段々と心細くなっていた僕は、

 

「何もないみたいだし、

もう帰りましょう」

 

と師匠に提案しようとしたが、

 

彼女が自分の目の下のあたりを

指で掻いているのを見て、

 

口を閉ざした。

 

そこには古い傷があり、

 

興奮した時には薄っすらと

皮膚上に浮かび上がるとともに、

 

チクチクと痛むのだという。

 

僕にとって彼女がそれを触る時は、

あるべき、いや、そうあるはずだと、

 

他愛なく僕らが思い込んでいる

この世界の構造が、

 

捻じ曲がる時なのだ。

 

ガサガサと生い茂る雑草を掻き分けて、

師匠はその家に近づいていく。

 

やがて、

 

醤油の『醤』という字のような

意匠が微かに残る、

 

※意匠(いしょう)

工夫をめぐらすこと。趣向。

 

家の正面の板張りを懐中電灯が照らす。

 

 

かつては醤油問屋だったのかも知れない。

 

師匠がその板張りをガタガタと揺らすが、

開きそうになかった。

 

明かりを上に向けると、

2階部分の正面の窓が照らし出される。

 

格子戸がはめ込まれているそこは、

 

下に足場もなく、

入り込めそうな感じではない。

 

と・・・

 

その格子の僅かな隙間から、

 

中で何かが動いたような空気の流れが

見えた気がした。

 

目を擦るが、

すぐに2階は元の闇に包まれる。

 

師匠が明かりを下げて、

 

「どこから入れるかな」

 

と呟きながら、

裏手へ回ろうとしていた。

 

なんだろう。

 

すごく嫌な感じがした。

 

もう一度、耳を澄ます。

 

やっぱり蛙と風の音だけだ。

 

回り込むと土塀がぐるりと囲んでいたが、

人が通れそうな潜り戸が見つかった。

 

半分崩れた木戸を押すと、

 

中は丈の長い雑草が群生する

空間になっている。

 

「裏庭か」

 

師匠がその中へ足を踏み込んでいく。

 

周辺を懐中電灯で照らすと、

倒れた灯篭の火袋や埋められた池の跡、

 

倒壊した土蔵や便所と思しき

小屋の痕跡などが、

 

ひんやりと浮かび上がってくる。

 

雑草を掻き分けて家屋の裏手の方へ

足を向けると、

 

至るところが剥げかけている漆喰の壁に、

戸板が厳重に張られた箇所があった。

 

※漆喰(しっくい)

瓦や石材の接着や目地の充填、壁の上塗りなどに使われる、水酸化カルシウム(消石灰)を主成分とした建材。

 

「裏口か。

でも開かないかな、これは」

 

師匠がゴンゴンと板を叩く。

 

パラパラと木屑が落ちる音がする。

 

「こっち、縁側がありますよ」

 

うっすらとした月の光に、

 

微かに濡れて見える縁側が

夜陰に佇んでいる。

 

しかし、その向こうには、

 

やはり雨戸らしき木の板が

一面を覆っている。

 

ゴトゴトと二人して揺すってみるが、

中からつっかえ棒でもしているのだろう。

 

まったく開く気配はなかった。

 

舌打ちをしながら師匠はそこから離れ、

裏庭の端まで行くと、

 

土塀と家の外壁の隙間に

身体を滑り込ませて、

 

奥へと侵入していった。

 

バキバキとなにかを踏み壊すような

嫌な音だけが聞こえてくる。

 

残された僕の辺りに闇が降りて来る。

 

少し心細くなる。

 

(続く)古い家 2/5

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