古い家 2/5

地下階段

 

やがて悪態をつきながら、

師匠がその隙間から戻って来た。

 

「ぺっ、ぺっ。なんだよこれ。

全然入れるトコないじゃん」

 

「そうですね」

 

そんな言葉を吐きながら、

僕は2階建てのその家屋を見上げた。

 

どれほどの時間、

この構造物はここに建っているのだろう。

 

明治時代から?

江戸時代から?

 

今、人工の無機質な光に照らされる

薄汚れた白壁は、

 

滅びた家の物悲しさを

(まと)っているように見えた。

 

リー、リー、と虫が鳴く。

 

師匠が、

 

「金属バット、

持ってくればよかったな」

 

と言った。

 

嫌な予感がした僕に、

 

間髪要れず、

容赦のない言葉が降って来る。

 

「体当たり」

 

「え?」と聞き返すが、

 

彼女はもう一度それを繰り返しながら、

懐中電灯で裏口の戸を示す。

 

なにか色々と言いたいことが

あった気がしたが、

 

すべて僕の中で解決がついてしまい、

うな垂れながらも諾々と従うこととした。

 

最初は軽く肩からぶつかってみたが、

 

ズシンという衝撃が

身体の芯に走っただけで、

 

戸は歪みさえしなかった。

 

「中途半端は余計痛いだけだぞ」

 

という師匠の無責任な発言を背に受けて、

僕は覚悟を決めると、

 

今度は十分に勢いをつけて、

全身でぶつかっていった。

 

バキッ、

 

という何かが折れる音とともに

戸が内側に破れ、

 

僕は勢いあまって中に転がり込む。

 

その瞬間にカビ臭い匂いが

鼻腔に入り込んできて、

 

頭がクラクラした。

 

戸は砕けたというよりは、

 

内鍵の代わりとなる差し板が

折れただけのようだ。

 

ギイギイという音を立てながら、

反動で揺れている。

 

僕を引き起こし、

師匠は明かりで家の中を照らした。

 

足元は土間だ。

 

流し台のようなところに、

甕がいくつか並んでいる。

 

※甕(たしらか)

水を入れる土製素焼きのうつわ。

 

木製の椅子が積み上げられた一角に、

竈の跡らしきものが見える。

 

※竈(かまど)

 

そして、

 

足の踏み場もないほど散乱した

(まき)の束。

 

「おまえ、こういう家、

詳しいんだろう」

 

師匠の言葉にかぶりを振る。

 

※かぶり(頭)を振る

頭を左右に振って否定する。

 

専門は仏教美術だ。

 

古い商家など守備範囲ではない。

 

「でも確かこういうの、

通り庭って言うんですよ。

 

それでこっちが座敷で」

 

と、僕は骨だらけになった障子を指差し、

 

次いで入ってきた裏口と

逆の方向の奥を指して、

 

「あっちが店の間ですね」

 

と言った。

 

「ほう」

 

と言いながら、

師匠は障子を開け放ち、

 

埃が積もった畳敷きの座敷に

足を踏み入れた。

 

もちろん土足だ。

 

調度品の類はまったくない。

 

ガランとした部屋だった。

 

ただ、腐った畳が嫌な匂いと埃を

舞い立たせているだけだった。

 

「これ以上進むと、ズボッといきそう」

 

師匠はその場で壁を照らす。

 

土気色の壁には、

 

板張りの上座の上部に掛け軸が

掛かっていたような痕跡があったが、

 

今は壁土が剥がれて無残な有様だった。

 

上を見ると、

天井の隅に大きな蜘蛛の巣があった。

 

蛾が何匹もかかっている。

 

「うそっ」

 

と師匠が息を呑む。

 

信じられないくらい巨大な蜘蛛が、

 

光をよけて梁に身を隠す瞬間が

確かに見えた。

 

気持ち悪い。

 

人の住まなくなった家屋の中で、

虫たちの営みは変わらず続いているのだ。

 

続きの隣の部屋も、

似たような様子だった。

 

次に僕と師匠は、

店の間に恐る恐る入り込んだ。

 

「蜘蛛、いる?」

 

急に腰が引けた師匠が、

暗闇に僕を押し込もうとする。

 

押した押さないの問答の末、

二人して入り口から中を覗き込むと、

 

背の低い陳列台のようなものが

いくつかあるだけで、

 

ほとんど何も残っていなかった。

 

ただ僕と同じように、

 

そこかしこに光から逃げるような影が

あるような気がしたのか、

 

師匠はむやみやたらと明かりを

四方八方に向けては、

 

「うぅ」と唸っている。

 

店の正面玄関にあたる戸の裏側には、

(『醤』の字が書かれていた戸か?)

 

やはり頑丈そうなつっかえ棒が、

何重にもしてあるのが見えた。

 

こっちに全力で体当たりしてたら、

と思うと僕はぞっとした。

 

その後も二人で家の中の

小部屋などを探索したが、

 

何も目立った成果はなかった。

 

つまり、

 

『この世のものとは思えない

呻き声が聞こえる』

 

という噂にまつわるような

何事も起きなかったし、

 

何も見つからなかった。

 

「人の気配はまったくないですね」

 

僕の囁きに、

師匠は「う~ん」と首を捻る。

 

なにかに合点がいかない様子だ。

 

確かにこんなところまで遠征して来て、

 

不法侵入までして何もなかったでは、

納得がいかないのだろう。

 

そう思っていると、

師匠が首を捻ったままポツリと呟いた。

 

「2階へはどうやって上るんだ」

 

ゾクッとした。

 

2階?

 

外から見えていた2階の格子戸。

 

あの奥には部屋があるはずだ。

 

あそこへはどうやって上る?

 

この家には階段がないじゃないか。

 

見落としがあったのかも知れない。

 

そう思って、もう一度、

家の中をぐるりと回る。

 

しかし、階段はおろか、

その跡さえ見つからなかった。

 

「こういう造りの家だと、

階段はどこにあるのが普通なんだ?」

 

師匠の言葉に答える。

 

「大抵は店の間の端です。

まあ、台所の横にあったりもしますが」

 

「ないじゃないか。どこにも」

 

おかしい。

 

縄梯子で出入りでもしているのか

と思って天井を観察したが、

 

そんな痕跡は見当たらなかった。

 

ひょっとして、

 

家の外側から架け梯子などで

出入りしていたのではないか。

 

そう思い始めた頃、

 

僕の耳は魂の芯が冷えるような

ものを捉えた。

 

うううううう

 

・・・・・・

 

そんな呻き声がどこからともなく

聞こえた気がした。

 

思わず身を硬くする。

 

気のせいじゃない。

 

その証拠が僕の目の前にある。

 

師匠が口唇に人差し指をあてて、

険しい表情で姿勢を低くしているからだ。

 

静かに。

 

そう僕に目で指示をしてから、

師匠はゆっくりとすり足で進み始めた。

 

嫌な汗がこめかみを伝う。

 

僕らがいた店の間から通り庭に入り、

 

懐中電灯の丸い光がつくる埃の道を、

息を殺して進む。

 

急に暗闇が深くなった気がした。

 

室内には、

 

単一の光源では届かない闇があるのだと、

今更ながら思い知る。

 

一瞬、目を離した隙に、

 

その闇の中へなにかが身を隠したような

想像が沸き起こる。

 

うううううう

 

・・・・・・

 

微かな呻き声に耳をそばだてながら、

師匠が足を止めた。

 

最初に上った座敷の前だ。

 

ゆっくりと畳に足を乗せ、

師匠は座敷に上り込んだ。

 

たわんだ畳に引っ張られるように、

骨だけの障子がカタリと音を立てた。

 

「おい」

 

という押し殺した声に引っ張り上げられて、

僕も座敷に上る。

 

師匠は部屋の隅の押入れの跡に

光を向ける。

 

取り外されたのか、

襖もない。

 

ただ部屋にぽっかりと開いた

穴のような空間だった。

 

まだ呻き声は続いている。

 

しかも、

明らかに近くなったようだ。

 

師匠が押入れの床をモゾモゾと

撫で回していたかと思うと、

 

ズズズ・・・という、

木が擦れるような音とともに、

 

目に見えない空気の流れが

顔に押し寄せてきた。

 

師匠が僕の方を振り返る。

 

そして、

押入れの床を明かりで照らす。

 

光はある一点で吸い込まれるように

消えている。

 

そこには、

隠し板の蓋を外された穴があった。

 

大きさは、

人が優に入り込めるほどのもの。

 

師匠の身振りに近くへ寄った僕は、

その穴の中を恐る恐る覗き込んだ。

 

そこには、

地下へ伸びる木製の階段があった。

 

空気が吹き上がってくる。

 

うううううう

 

・・・・・・

 

空洞を抜ける風の音。

 

これが唸り声の正体か。

 

ごくりと唾を飲み込む僕に、

師匠が囁く。

 

目を爛々と輝かせて、

 

「さあ、行こうか」

 

と。

 

(続く)古い家 3/5

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