天使 1/5
京介さんから聞いた話だ。
怖い夢を見ていた気がする。
枕元の目覚まし時計を止めて、
思い出そうとする。
カーテンの隙間から射し込む
朝の光が思考の邪魔だ。
もやもやした頭のまま、
硬い歯ブラシをくわえる。
セーラー服に着替え、
靴下を履いて鏡の前。
ニッと口元だけ笑うと、
ようやく頭がすっきりして来る。
そして、
その頃になってまだ朝ごはんを
食べていないことに気づく。
ま、いいか、と思う。
朝ごはんくらい食べなさいという、
母親のお説教を聞き流して家を出る。
今日は風があって涼しい。
本格的な夏の到来は、
もう少し先のようだ。
大通りに出ると、
サラリーマンや中高生の群れが、
思い思いの歩調で行き来している。
私もその流れにのって、
朝の道を歩く。
この春から通い始めた女子高校は、
ただ近いからという理由だけで
決めてしまったようなものだ。
それがたまたま私立だったというわけで、
両親にはさぞ迷惑だったことだろう。
薄くて軽い鞄を片手に歩くこと10分あまり。
高校の門をくぐって
自分の下駄箱の前に立つと、
今頃になってお腹が減ってくる。
ああ、バターをたっぷり塗った
食パンが食べたい。
そんなことを思いながらフタを開けると、
上履きの他に見慣れないものが入っていた。
手紙だ。
可愛らしいピンクのシールで
封がされている。
とりあえずそのままフタを閉じる。
記憶を確認するまでもなく、
ここは女子高校で。
ということは、
下駄箱に入っていたピンクのシールの
手紙などというものは、
つまり『そういう』ものなのだろう。
男子より女子にモテた、
暗い中学生時代の再現だ。
いや、共学でなくなった分、
もっと事態は深刻だった。
げんなりしながらもう一度下駄箱を開け、
手紙を取り出して鞄にねじ込む。
上履きの踵に人差し指を入れて、
右手を下駄箱について
片足のバランスを取っていると、
ふいに誰かの視線を感じた。
顔をあげると、
廊下からこっちを見ている女子生徒がいる。
ずいぶんと背が高い。
その大人びた表情から、
3年生かとあたりをつける。
え?なんでこっち見てるの。
まさか、あの人が手紙の
差出人だったらどうしよう。
今かなりグシャグシャに、
鞄に入れちゃった。
そんな自分の逡巡も、
※逡巡(しゅんじゅん)
決断できないで、ぐずぐずすること。
すべて見透かしたような目つきで
彼女は微かに笑ったかと思うと、
「恨みはなるべく買わない方がいいわ」
と、小鳥がさえずるような囁き声で言った。
そして制服を翻し、
目の前から去っていった。
その瞬間だ。
周囲に耳が痛くなるような雑音が発生し、
何人もの生徒たちが袖の触れ合う距離で
私のそばを通り過ぎていった。
ついさっきまで私はなぜか、
この下駄箱の前に自分しかいないような
錯覚をしていたのだ。
しかし、
確かにさっきまでこの空間には、
この私と廊下のあの女子生徒の
二人しか人間はいなかった。
始業の10分前という慌しい時間に、
そんなことがあるはずがないにもかかわらず、
そのことになんの疑問も持たなかった。
まるで、
夢の中で起こる出来事のように。
笑い声。
朝の挨拶。
下駄箱を閉開する音。
無数の音の中で、
廊下から囁く声など聞こえるはずはなかった。
私は昇降口のざわめきの中で、
一人立ち尽くしていた。
「ちひろ~?どうしたの。
気分悪いの」
その日の休み時間。
浮かない顔をしていた私に、
ヨーコが話かけてきた。
奥という苗字だったが、
彼女には奥ゆかしさというものはない。
※奥ゆかしい
上品でつつしみ深く、心がひかれる。態度にこまやかな心配りがみえて、ひきつけられる。
席が近いこともあって、
入学初日からまるで旧来の友人のように、
私に近づいてきた子だった。
初めはその馴れ馴れしさに戸惑ったが、
元来友だちを作るのが苦手なタイプの私が、
新しいクラスでの生活で、
すぐに話し相手を得られたのは有り難かった。
「ねえ、どったの」
椅子の背中に顎を乗せて、
体を前後に揺すっている。
椅子の足がそれに合わせて
カコカコと音を立てる。
「うるさい。それやめて」
そう言うと、
「うわ。ご機嫌斜め」
と嬉しそうな顔をして、
椅子を止める。
「腹減った」
思わず出てしまった言葉に、
ヨーコは頷く。
「やっぱりそれか。
大食いのくせに
低血圧のお寝坊さんなんて、
不幸よね」
別に寝坊してるワケじゃない。
というようなことを言おうとして、
ふと思い出した別のことを口にした。
「背が高いショートの人、知ってる?
たぶん3年生だと思うんだけど」
と言いながら、
朝の昇降口で見た切れ長の目や
その整った顔つきの説明を、
なるべく正確に伝える。
するとヨーコは少し考えたあと、
「それって、間崎さんじゃないかな」
と言った。
「へえ、有名なんだ」
「有名ってわけじゃないと思うけど。
同じ1年だし、見たことくらいあるよ。
ホラ、A組の」
「え?同い年なのか」
少し驚いた。
「その間崎さんがどうしたの。
告られたとか?」
朝のことを説明しようとしてやめた。
めんどくさい。
「でも、間崎さんって、
なんか気持ち悪いらしいよ。
よく知らないけど、
呪いとかかけちゃうんだって」
ドキッとする。
私も中学時代に趣味の占いを
学校でもやっていたら、
そんな噂を立てられたことがあった。
高校では少し大人しくしておこうと、
学校には今のところ趣味を持ち込んでいない。
「呪い、ね」
教室を何気なく見回した。
その時、
遠くの席に座る子と目が合った。
地味な目鼻立ちに小柄な体。
髪型こそ違うが、
どこか似ている子が二人。
顔を寄せ合ってこちらを見ている。
私の視線に気づいたヨーコも、
そちらを見る。
二人はハッとした表情を一瞬見せたあと、
怯えたように目を伏せた。
なんだろう。
まだ会話もしたことがない子たちだ。
名前も出てこない。
クラスの中でも、
一番印象が薄いかも知れない。
「ちひろ。怖がらせちゃダメよ」
ヨーコが楽しそうに言う。
「あなた見た目、怖いんだから」
そんなことを言って、
チクリと私の心のキズを刺す。
目つきが鋭いのは生まれつきで、
決して怒っているわけではないのだが、
時として善良な女子から
怖がられることがあった。
不本意なことに、
背が高いというだけでそのイメージが
さらに増幅されるようだ。
眼鏡を掛けている方が島崎いずみ、
頬に絆創膏を貼っているのが高野志穂だと
ヨーコが教えてくれた。
明日には少なくとも、
どちらかは忘れてしまいそうだ。
「マイナーキャラね」
とヨーコは笑った。
本人たちにも聞こえるかも知れない声で。
5時間目が急に自習になり、
私は適当な時間に教室を抜け出した。
校舎裏の人気のない一角が、
私の密かなお気に入りだった。
壁の構造に沿って微かな風が吹き、
髪の先を揺らす。
私は切り取られたような
小さな空を見上げながら、
どこからか聞こえてくる
屋外スポーツのざわめきに耳を傾ける。
こうしている時間は好きだ。
たくさんの人がいる場所の片隅に、
ぽっかりと開いた穴のような孤独な空間がある。
そう思えるから、学校なんていう、
息の詰まる所に毎日来られるのだし、
そんな空間こそ自分の本当の
居場所であるような気がして、
心が充足していく気がする。
2本目の煙草に火をつけた時、
壁の曲がり角に誰かの気配を感じた。
慌てて足元に落とそうと身構えると、
その誰かは能天気な声を発しながら
姿を現した。
「あ~、不良はっけーん」
ヨーコだった。
心臓に悪い。
「時々いなくなるのはココだったのね。
静かでいいねぇ。あ、怒っちゃった?」
怒りはしないが、
秘密の場所の占有が崩されたことに、
僅かな失望を覚えたことは確かだった。
ヨーコは隣にツツツと寄って来て、
壁に背中をあずける。
「昼休みにさあ、
なんかイカツイ先輩来てたけど、
あれなに話してたの?」
「ああ、あれは・・・」
中学時代にやっていた
剣道部の先輩だった人が、
高校でもやらないかと
私を勧誘しに来ているのだ。
何度か断ったが、
なかなかしつこい。
「どうして入んないの」
別に大した理由はない。
子どもの頃、
父親に言われるままに通い始めた
剣道の道場には、
今でも週に2回は顔を出しているし、
学校ではもういいやと思っただけだ。
「ふうん。やればいいのに。
もったいない」
それから二人でとりとめもない話をした。
時間はゆっくりと流れていた。
教室に残したノートは、
清清しいほど真っ白のまま。
それでも悪くない気分だった。
チャイムが頭の上から鳴り響き、
ため息をついて体を起こす。
その時、ヨーコが言った。
「あのさ、ちひろ。
自分がヤンキーとかって噂があるの
知ってる?」
「私が?」
笑ってしまう。
「いや、結構マジで。
どっかの不良高の男とつるんでるとか、
夏休みまでは大人しくしてるだけとか、
そんな噂があるし。
実際、怖がってる子、多いよ」
真剣な顔でそんなことを言われ、
思わず手元の煙草を見つめる。
どうでもいいや、
めんどくさい。
そう思いながら火を踏みつけた。
その日の放課後、
鞄を机の上に乗せて身支度をしていると、
ヨーコが遊びに行こうと誘って来た。
(続く)天使 2/5